神武東征は古事記にも日本書紀にも書かれている。 実際の出来事なのだろうか?
九州高千穂の峰に降臨した天孫族の三代目である神武は、瀬戸内海を経て紀伊半島沿岸を回り熊野を越えて、ようやく八咫烏に導かれて太陽を背に奈良盆地の南、吉野に降臨した。
幾多の著述家、文献研究者、考古学者、市井の研究者などが、この真偽を語ってきた。
日本書紀は、神武東征は天孫族が日本列島の唯一の統治者であることを示す道筋を示している。天皇制は編纂最中の702年の大宝律令を以って始まったとされ、現代日本の社会までずっとつながっている。
神武東征の実相を考えるには、先ずは、日本書紀に天孫思想を織り込んだと思われる持統天皇の役割を考えてみたい。
「現代日本人」はBC3C以降崇神期まで、鉄と共に列島内に広がったが、その前の記憶をとどめていない。(消し去ったとも・・・) 神武東征以前の時の流れとその後に続く大王たちの実相を辿ってみる。
注)呼び名
漢風諡号の神武天皇が一般的だが、日本書紀の中では、「神日本磐余彦」(かむやまといわれひこ)であり、実名は「彦火火出見」(ひこほほでみ)と表記されている。
注)天皇の呼称
天皇が初めて使われたのは、聖徳太子が隋に送った国書に“天皇”と表記され、それが最初と思われる。それ以前は、単に大王“おおきみ”、“すめらみこと”などと呼ばれていたようだ。
注)”はつくにしらすすめらみこと”
この名は、日本書紀で、神武(始馭天下之天皇)、崇神(御肇國天皇)両者の事績を称賛する文中で使われている。個別の呼び名というよりも、”素晴らしいことを初めて行ったすめらみこと”という使い方と言える。 ゆえに、これを以って両者が同一人物であるとは言えないであろう。
注)東征か、東遷か?
東遷は、神武以外を含めて北九州勢力が東に向かい、奈良盆地に勢力を移した意味で使われているようで、東征は神武が正に武力で征服した意味で使われています。
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