1)青銅と鉄が同時期に入ってきた。
他の世界では、青銅文化の後に鉄文化となるが、列島にはほぼ同時期に両方が流入した。 つまり、青銅器時代は殆どなく、青銅、鉄共存の時代となった。
鉄は武器、農耕器具など多様に使われ、青銅は錆びないので祭器、副葬品に用いられた。
2)何処から来たか
BC3C頃、遼東半島の鉄が半島から北九州、日本海側にもたらされ、農耕技術の発達していき、社会変革が始まった。 BC108に衛氏朝鮮が漢の武帝に滅ぼされ、漢の直轄地となった。漢の支配下に入ってからは半島北部の鉄を手に入れるようになり、BC100-AD100頃には半島南部の鉄を交易により手に入れていた。
鉄と青銅は主に二つのルートで流入した。
一つは対馬海峡経由で九州北岸へ辿りつく路ともう一つは対馬海流・リマン海流に乗って日本海沿岸に直接到達する路である。 北部九州勢は距離的なメリットを活かして、対馬を経由して交易を活発に行っていた。
3)半島と鉄を巡る争い
AD14-AD233の間に、北部九州勢力は鉄と任那を巡って、新羅との間で頻繁に争った。(三国史記新羅本記)
日本海側にも鉄を持つ勢力があった。
BC100-AD100頃には半島南部の鉄を北部九州経由で手に入れていたが、その後、半島東側から直接、鉄を交易するようになった。
その後も大陸、半島から多くの人々が列島に移動してきて、新技術(鉄と農耕など)、戦闘の仕方、墳墓の作り方などをもたらした。
現在も残る新羅神社、そして銅鐸の原型などもある。
と同時に、追い出された人々は半島への反感、対抗心を持ち続けていたと想像する。
4)鉄が広がり、日本列島内も争いも激化
弥生時代後期(AD100-350頃)全体を通して、北部九州、日本海側諸国はは半島との交易に力を注ぎ、戦闘を行い、より多くの鉄を手に入れていた。
そして、列島内でも国同士の戦いも頻発していた。 (一つの国は現在の一都市程度の大きさであろう)
その鉄は南部九州、吉備などにも伝わり、それぞれの国力が上がっていった時期である。
AD100-200の時期は、鉄器を利用して農作物の生産が高まり、小国家(現代の都市、郡レベルの規模)は余剰人員を武闘専門化した集団を抱えて武闘を繰り返していた。倭国大乱である。
北部九州勢力は半島と国内の両方で武闘を繰り広げていたとも言える。
注)鉄は富の象徴であった。
半島南の木槨墓には、大量の鉄斧が敷き詰められていた例が多い。
日本列島内では、鉄鋌の形で流通していたようだ。古墳から出土している。
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