1)銅鏡が北部九州入ってきた 。
銅鏡は太陽神崇拝の象徴で、北部九州が中心となって広がる。
銅鏡は大陸から半島西部(楽浪郡、帯方郡)を経由して九州へ伝わり、神仙思想に基づく文様、絵柄が表されていた。 北部九州の人々は、鏡を太陽の象徴としてとらえた。
そして、銅鏡を太陽神信仰の象徴とし、卜骨と合わせた“鬼道”が誕生したのだろう。
但し、大陸では鏡は日用品として使用されていたようで、鏡に対する思い入れが全く違う。
2C後半から続く北部九州内部の争いは武力で決着つかず、3Cになり、鬼道を以って、魏志倭人伝の中心となる邪馬台国が北部九州を中心とした地域の諸国をまとめた。
2)銅鐸原型は日本海側に入ってきた。
銅鐸の原型が半島東部(新羅)から直接日本海側に伝わった。同時に鉄も伝わっており、農業生産は飛躍的に伸び始めていた。鉄は当初は北部九州経由から伝わり、その後半島から直接入ってくるようになった。
長年の自然崇拝を基に、農業生産と銅鐸原型結びつき独自の祭祀が生まれた。銅鐸の形が変化し、菱環紐式、外縁付紐式、扁平紐式の中小型銅鐸が生また。
祭祀の際に音を出して利用された。
安定的な農業生産を望む人々は、毎年の豊作と天候の安定を祈るため、銅鐸を農作祭祀に利用し、祭祀後は埋納し、又翌年の祭祀の際は掘り出して祭祀に使用していたのだろう。
半島東部では、銅矛を埋納し掘り出すことを繰り返す祭祀があった。これが銅鐸祭祀の参考となったのではないか。(この銅矛は北部九州製とみられる。)
毎年繰り返すこのような祭祀は、更に人々をまとめる“社会性”の発展に役立った。
銅鐸は人の生死にまつわる祈念には使用されなかったようで、宗教的側面より自然界への畏敬と祈りの道具となっていたと解釈する。
半島からの影響を受けながらも、日本列島の自然環境(生命力あふれる山、川)で育まれてきた、“自然と共に生きていくという精神性”は貫かれていた。
この精神性と鉄を用いた集団での農業生産力向上などが「現代日本人」の社会を変貌させ、大陸、半島とは違う精神文化と社会を形成していった。
日本海側では小国家間の鉄の争いは、銅鐸文化の浸透により沈静化していった。
半島東からの渡来人は木槨を埋葬形式に持ち込んだ。山陰から北陸にかけて四隅突出型墳丘墓を造り、又吉備では前方後円墳の原型と言われる盾築墳丘墓を木槨形式として、その周りに副葬品(鉄剣、ガラス勾玉、埴輪の原型の特殊器台)を入れた。
のちの前方後円墳では、木槨は用いられず石室形式になり、埴輪と鏡が並べられている。
吉備型と北部九州型を合体させたといえるだろう。
コメント