=第三章= 1.北部九州勢力が力をつける

1)世界は混乱した
AD181 ニュージーランドのタウポ火山が大噴火する。(VEI7レベル、噴煙高度50km) 火山爆発指数VEI7は、噴出量は100km3以上。(セントヘレンズ噴火の100倍以上)
大量の火山灰と気候変動により世界中の農作物が壊滅的な被害を受け、大陸では黄巾の乱が起こる。


2)日本列島も混乱した
2C後半と言われる倭国大乱の原因も同様で、他国を侵略して穀物を奪い合う戦いだった。主に九州から日本海側、中国、四国北部で起きた騒乱のことを指すと考えられる。
但し、関門海峡など海を隔てた同士が争い合うというのは現実性がない。
九州は九州内で、中国地方は中国地方内で争いがあったと考えるのが妥当であろう。

三国史記新羅本記に、「AD193に倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来」とあるのも、その証左である。
吉野ヶ里遺跡に代表されるような大きな環濠集落は一つの国であり、その大きな集落間で、半島新羅との争いのように、鉄製の武器を使って戦闘が繰り広げられたのだろう。

3)邪馬台国が抜きんでた  AD200頃~
その九州内での大乱を収めたのは三十数か国が共立した邪馬台国である。
血を血で洗う争いを続けてはお互いに疲弊するばかりだし、同族意識も高かったので、共立の形で収めたのだろう。 半島対北部九州の争いで、お互い団結していた経験も後押したのかも知れない。
三十数か国の連合体が団結すれば、他を圧倒し抜きんでた存在になる。
AD238に卑弥呼の使者難升米(なしめ)が帯方郡経由で魏に謁見し、卑弥呼に対して、 親魏倭王の封号が送られた。 魏が遼東半島を支配していた公孫淵を滅ぼした年に、日本列島の他の国より早く訪れたのは、大陸、半島情勢に通じていたに他ならない。

これにより、北部九州での邪馬台国はさらに力をつけ、卑弥呼から台与に代替わりするのと時期を同じくして、都を朝倉宮から遠賀川流域に移した。

半島との交易にさらに力を注ぎ勢力を拡大した。 その後も、帯方郡経由で魏に使いを出しており、大陸勢力を後ろ盾にして更に他国を圧倒していった。
冊封体制に組み込まれていたという見方もできる

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