1)出雲と半島東部
日本海勢力は半島東部と距離近く海流にも助けられ、直接交流していた。
BC1Cに建国された新羅の影響は各地に残っている。
出雲国風土記の冒頭、「国引き神話」は当時のつながりを示すものである。
2)“鉄と銅鐸祭祀”が広がっていた
鉄による農業生産の拡大と社会階層構造の出現と共に、半島東から銅鐸の原型がもたらされ、縄文より受け継がれていた自然崇拝と混じった“鉄と銅鐸祭祀”が広がっていた。
又、能登半島から中国地方の海岸沿い広がる漂着神は、日本海沿岸を行き来する人々に信仰されていた。
出雲勢力が最も大きかったとは思われるが、力で他方を支配するのではなく、鉄と銅鐸を用いた生活様式が根付き広がっていたと解釈する。 但し、大国主は両系相続を以って、糸魚川、長野、隠岐の島まで関係を持っていた。
3)四隅突出型墳丘墓
山陰から北陸にかけて、四隅突出型墳丘墓が作られた。
墳丘に石を葺く、四隅に石を置く原形式は、高句麗扶余の積石塚に求めることができる。
大きな墳丘墓を作るための設計力、労力を結集できる力を既に持っていた。
西谷墳墓群では、木棺を木榔でかこむ構造をとり,多量の水銀朱が使用された棺内から玉類や鉄剣などの副葬品が見つかっている。後述の吉備盾築遺跡も同様。
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