1)奈良湖の水が引いて、耕地に適した陸地が出現し、人々が住み始め集落が出現した。 縄文から弥生初期にかけては、近畿地方の低地部は海岸が内陸に入り込み、又湖も多かった。 河内湖は現在の大阪地方、巨鯨池は京都盆地、奈良湖(大和湖)は奈良盆地などである。 各研究者によると以下のように報告されている。
2)古代史の謎は「鉄」で解ける。」長野正孝著 PHP新書より、 “やがて、河内湖も奈良盆地の湖も次第に干上がり、今の姿になったが、集落はその水際を追いかけて動き続けたのである。”
- 古代史の謎は「鉄」で解ける。」長野正孝著
3)「奈良盆地の景観と変遷」千田正美著 1979年第2刷 柳原書店より、
①“奈良盆地は、地質時代には山城方面に口をひらいた海湾であったが、洪積期の終わりごろから、湾口に出来た奈良山丘陵の堆積によって大阪湾から独立し、大和湖を形成するに至った。
その後、亀ノ瀬付近で断層による陥没が出来て、水は大阪平野に向かって排水されるようになった。 大和湖の水面は6000年ほど前には、70mの辺であったが、その後低下して、2500年以前には、50m辺まで低下するに至った。
そして、湖岸平野が形成され、弥生時代になって、稲作がこの地域に発達することになる。” “亀ノ瀬付近で断層による陥没は、大和川の川筋と重なってる”。
- 2500年前 標高50m迄は湖
- 弥生時代の集落の高度「奈良盆地の景観と変遷」千田正美著
② “前期には、高度40~50mの場所に多い。 当時はまだ湿地帯で完全に陸化していなかったが、そのころの農業技術ではここが適地と考えられたのであろう。この辺に概当するのが「唐古池遺跡」である。 中期から後期にかけては、高度50~80mの多くの集落が確認されている。 50m以下では、三角州性低地の過湿地帯となり、おそい時期までで湛水していたので、そこを避けて集落を築いたようだ。 盆地が今日のように干上がってしまうのはその後のことである。”
4)湖が干上がり人々が移動してきた
・2500年前は、奈良盆地周辺地図の濃い緑色部分(標高50m付近)の大半は湖であった。
・その後、湖が干上がり農耕に向く新開地が出現したが、集落はその周辺に点在した。 現在の山辺の道付近を境に、下は農地、上は集落というすみわけが続いた。 ・鉄の利用で農業生産性が向上するとともに、新開地を求めて人々が移動してきた。
・周囲を山で囲われて、外敵から守るに格好の地でもあった。
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