北部九州勢力が出雲勢力を武力で屈服させたのが、“国譲り”である。
北部九州勢力は半島の鉄資源の権益を求めて争っていた。同じく、出雲勢力も北部九州経由で半島と交易をしており、鉄資源も手に入れて繁栄していた。
宗像三女神は、出雲は北部九州と深い交流があった証でもある。 又、直接、半島東とのルートもあり、様々人々が日本海側に辿りついていた。
半島への拡大戦略を日本列島に振り向けた北部九州勢は、出雲日本海側勢力を支配するべく、何度も使者を送り要求していたのだろう。
それが、国譲り物語にもある、三回の使者のことである。(天の穂日の命 3年居ついて失敗、武三熊之大人 帰らず失敗、天若彦 反逆して失敗と伝わる)
半島との戦闘で鍛えられた北部九州勢は、卑弥呼亡き後、AD249年を境に半島との闘いを休止させて、出雲に侵攻させたのが、“国譲り”と表された。AD250-260年頃だろう。
- 打ち捨てられた人骨 109体
青谷上寺地遺跡の多量の人骨は、倭国大乱(2C末)の頃とされるが、これを北部九州勢力と日本海側勢力の戦いの悲惨な結果と理解すると、3Cの国譲りはその暴力的な力を背景に実行されたと想像する。
暴力的な九州勢力、平和で祈りの出雲勢力という構図が成り立つ。
その後、北部九州勢力がそのまま、出雲を中心とする日本海側を支配できたかというと、そうではなく、丹後半島の勢力との闘い、建御名方(たけみなかた)の追討にかかる越、信濃の勢力との闘いなどがあった。
そのように時間が経過する中で、出雲日本海勢力の“鉄と銅鐸”文化と合わさり、多くの勢力は北部九州に帰ることなくそれぞれの地域に根付いていったと解釈する。
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