=第五章= 2.饒速日が東に向かう AD250頃

1)北部九州勢 第二軍が奈良盆地に向かう
北部九州からは、前項の「天の穂日の命」は第一軍として出雲に向かい、「饒速日」は第二軍を引き連れて、栄えつつある東へ進撃した。
後述の「瓊瓊杵尊」は第三軍として、長い間反目していた南九州を目指して南下した。天孫降臨である。
半島との争いを休止した北部九州勢力は、国内重視の政策に転換して、各地に向けて行動を開始した。

遠賀川流域に本拠地を持つ、饒速日・物部氏が鉄の流通ルートを拡大するため、瀬戸内海を沿いに東へ向かった。
先代旧事本記によると、饒速日には、尾張、忌部、中臣などの32神と物部、十市部などが5つの部が従っていた。さらに、警備のため5名の「造」と、25名の兵杖を持った「部」が伴い、操船した6つの者の名が記されている。大集団である。
この大集団は河上の地、「哮峰 いかるがのみね」か、「磐船神社の磐座」に降り立ち、その後、鳥見白庭山付近に拠点を築いた。
実際は海岸に辿りついたが、天孫降臨を主柱とする高天原勢力の一員としては、高いところに降り立った事にしたかったのだろう。

天野川を跨ぐように横たわる、高さ約12メートル・長さ約12メートルの舟形巨岩を御神体と饒速日の墓。

2)近畿以東にも勢力を広げる
奈良盆地に到着したあと、滋賀、尾張、静岡まで勢力を拡大させていた。饒速日も鏡祭祀であったが、実際の勢力拡大には、大国主に倣い両系相続と“鉄農業力と銅鐸祭祀”の社会システムを浸透せる手法がとられた。
ただし、鳴らす銅鐸の近畿式銅鐸から、大型の三遠式銅鐸、見る銅鐸の分布エリアと重なる地域である。

3)現地同化策で権益を広げる
半島との鉄の権益争いなどで培った集団統率力、政治力は地場の豪族たちを上回り影響力を広げた。尾張氏などの引き連れた勢力が各地を治めたが、武力制圧ではなく、出雲日本海側型文化を利用して、又、両系相続と鉄を含めた経済力を握っていたと推測する。

4)実務の中心は物部氏
物部氏は鉄の交易と軍事力の中核を担っていた。物部氏が政治支配の実際を取り仕切っていたと推測する。物部氏は九州遠賀川流域を活動拠点としていたが、付近では多くの鉄の遺物が出土している。又、後年の天理市周辺の物部氏拠点は武器庫となっており、鉄の権益を継続して保っていた。

5)吉備勢力を上書きして、勢力を広げた。
3Cの奈良盆地には出雲勢力が広く根を張っていた。(支配ではなく“鉄”と“銅鐸祭祀”の世界)そこに吉備勢力が現在の纏向周辺に、大規模墳丘祭祀を象徴とした勢力を広げていた。纏向型前方後円墳とも、定型前の前方後円墳という言い方もある。(柳本大塚古墳など)

奈良盆地は半島からの距離的問題、沼地の開拓が遅れていた事などの要因により、産業の基本素材である鉄が不足し、鍛治利用の方法なども北部九州と比べ遅れていた。
そこに、饒速日、物部氏が九州から鉄を持ち込み、鉄の交易とその高度な利用を浸透させたのである。武力と政治力に勝る饒速日勢力が取って代わっていった。

6)3C奈良盆地の勢力図(饒速日後、神武東征前)・・・出雲・吉備と分け合っていた。

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