1)邪馬台国は武力に勝る
邪馬台国(海外からの呼称は倭国)は半島での鉄権益を争い、特に新羅との闘いを繰り返していた。その中で、最新の鉄製武器を手に入れ、組織的な戦闘方法を学んでいた。
そして、軍勢を三回に分けて、東方(銅鐸文化圏)に派遣し勝利した。
①出雲の国譲り、②饒速日の近畿及び以東派遣、③神武東征である。
邪馬台国は強かったが、各地に抵抗勢力は残った。
①南九州、②吉備、③丹後、④越、⑤東海などの地域である。
2)外交戦略が後押し 大陸(魏、西晋)の後ろ盾と政治力
卑弥呼(邪馬台国)は、魏が公孫淵を滅ぼしたAD238年に使者(難升米)を送っている。
以降、遼東半島に邪魔者(公孫氏)が居なくなり、魏と通行ができるようになった。
その後も、魏に使者を送り、関係を深めている。
その約10年後の249年には、新羅との戦闘を休止させ、AD250年以降に、国内で東遷戦略を実行始めている。
卑弥呼が248年に死亡していることが関係しているかもしれない。
更には、東遷戦略の真っ最中に、西晋が建国(AD265年)されると、その翌年(AD266年)に使者を派遣して後ろ盾とした。
戻るが、魏の情勢に詳しかったのは、魏以前の後漢とも関係もあったことを示唆している。公孫淵の敗北、西晋建国の翌年にすぐ使者を送ったのは、正に「機を見るに敏」な行動である。
このように、邪馬台国は大陸、半島の情勢に通じ、関係を押さえた上で、国内拡大戦略を実行した。高度な政治的戦略をとれる人材と体制を持っていたのである。これには、鉄と共にやってきた渡来人が深く関係しているのだろう。
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