=第六章= 1.欠史八代の事績(綏靖から開化迄) AD280頃~

1)両系相続で出雲勢力を取り込む
出雲国譲り後に神武は奈良盆地を制圧した。しかし、奈良盆地に先に居た出雲勢力は影響力を持ち浸透していたので、その力を邪馬台国勢力に取り込むため、「言向け和す(ことむけやわす)」を実践していった。
邪馬台国から大倭国となっていく。
つまり、出雲勢力との両系相続により奈良盆地の支配を広げていった。 二代目、三代目のお后は大国主系だったが、その後大王、物部系を経て、四代名以降は、物部系と天皇系が入り交じりながら、十代目崇神以降は、天皇系お后となる。 皇后の出自を見れば鮮やかに、天皇系への系統変換を行ったといえる。

2)神武から崇神迄は、4つの世代間
神武から崇神迄の10代は、約70年間を4つの世代でつながっていた。 日本書紀編纂する際に、神武の生まれ年を辛酉革命に則り、推古朝から1260年前の人とした。そのため、神武から22代清寧神迄の在位年数を引き延ばし、各人を驚異的に長生きさせた。
そして、後継者争いはあっただろうが、欠史八代には、持統が目指す父子相続を当てはめて系図を作った。血脈も断絶したかもしれない。


実際には、神武(AD280頃)から崇神(AD350頃)迄の約70年を、4世代間で推移したと推察される。(日本書紀では崇神迄の563年間を9世代間)
世代別構成は以下の通り。
第1世代:①神武と②綏靖は事代主の姫が皇后なので同世代。
第2世代:③安寧、⑤孝昭、⑥考安の第二夫人は磯城県主葉江の娘たちなので同世代  
     その間の④懿徳は同世代。

第3世代:⑦孝霊は独立した世代。大和川見下ろす地に墳墓、西方を意識している。
     孝霊の皇子である吉備津彦は吉備に赴き征服。(古事記)。
     皇女の倭迹迹日百襲姫は大物主に嫁ぎ、亡くなるなど、逸話多数。
第4世代:⑧孝元・⑨開化は同じ皇后なので同世代。前方後円墳に移行。
第5世代:⑩崇神  以降、第一皇后は大王系(神武系)で占められる。


3)日本書紀に事績が記述されないのは
いわゆる欠史八代は移行期で、既にあった出雲と吉備勢力の社会システムと物部氏の事績が相互に関連して社会が変化していた。天孫族の独自性、正統性に疑義が生じることは隠蔽された。
崇神以前は、世代間の記述を修正し、吉備、出雲、物部氏の事績が抹殺されている。
①物部氏の事績を隠蔽
物部氏の事績は殆ど伝えられていない。
饒速日はから崇神に至るまで、実際の政治と軍事を司ったのは物部氏である。しかし、その後、蘇我氏との崇仏論争に敗れ、6C終わりに物部守屋は殺害される。7Cには更に物部氏から石上氏に姓を改めるなど、日本書紀編纂の頃には、完全に没落して、悪者扱いされていた。
そのため、物部氏の事績は賛美出来ない。
②出雲と吉備の隠蔽
祭祀と墳墓の移行期に活躍した欠史八代の大王たちの事績を書こうとすると、前方後円墳とその祭祀形式が吉備、出雲を基にしていることに触れなければならず、天孫族の権威が損なわれてしまう。
又、その間、実務を担当していた物部氏の事績にも触れざるを得ず、両系相続を経て支配の系統変換を行ったことだけを残したと推測する。

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