=第六章= 4.四道将軍と景行九州征伐

1)四道将軍
第2代から9代までの大王たちの政権強化の過渡期を経て、10代崇神は、邪馬台国東遷の残存抵抗勢力を追討する決意を固めた。従わない西海、丹後、北陸、東海の4つの地方に、皇子たちから成る追討将軍(四道将軍)を派遣して、各地を征服した。(日本書紀)

しかし、日本書紀では、99日に派遣し、翌年の428日に凱旋報告している。一年かからずに各地域を支配して戻ってくるのは出来過ぎで誇張している。
実際には、古事記にあるように孝霊時代に吉備津彦が先行して派遣され、崇神期に他3人が各地に派遣されたのだろう。

①大彦命(おおびこみこと) 北陸
孝元の皇子であり大物。高志(越)の国は、国譲りのときに建御名方神(たけみなかたのかみ)が糸魚川にある母の奴奈川姫を頼り逃げ込んでいた逸話があるように、越の国には、強力な抵抗勢力がいた。

②武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと) 尾張以東の東海
大彦命の息子である。饒速日が進出していた地域から更に東側で、北部九州勢力には、処女地進出という意味合い強い。
父大彦命と福島県会津で再会したとある。なので、会津と呼ばれている。ありそうである。

③丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと) 丹後
ここは大陸、半島との直接のつながりもあり、出雲から逃げてきた人々も集まり、狭い地域ではあるが、抵抗する力は強かった。

④吉備津彦命(きびつひこのみこと) 西海(吉備)
崇神の3代前の孝霊の皇子、崇神の祖父世代で、倭迹迹日百襲媛命の弟。
古事記では孝霊時代に吉備に派遣され、「言向け和す」して治めたとある。
吉備は、神武が3年間も対峙していた強力な勢力で、この征服劇は鬼退治伝説の元となった。
神武東征後に吉備勢力と決定的な対立が起こり、吉備を徹底的に悪者に仕立てたと思われる。

2)景行の九州征伐AD370年頃
邪馬台国東遷後は、北部九州も半島との鉄の交易などをより活発に行ったと推測する。物部氏の勢力地である、遠賀川一帯も以前に増して栄えていった。
しかし、四道将軍が派遣された後も、九州では、邪馬台国と狗奴国の争いが続いていた。

11代景行は、自らが九州に赴き、南部九州の各地を攻めた。
更に、その皇子の倭建命が熊襲を攻めて屈服させた物語は有名である。
(女装で不意打ち)

3)半島との争いが復活
三国史記によると、287年に倭国が新羅を襲った記述があるように、北九州勢(倭国)は力をよりつけて、加羅を巡って新羅との権益争い復活した。
半島との争いを本格的に引き継いだのは、4C末の神功皇后であろう。

 

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