4C前半孝霊、 孝元、開化の時代に四道将軍など能力発揮する人物が現れ、
後に続く崇神が神武と同じように強いリーダーに成長した。
崇神は物部氏たちを動かし、次々と政策を打ち出し、奈良盆地を固め、全国に支配を広げた。
1)拡大戦略
①奈良盆地の出雲勢力を取り込み、奈良盆地支配を固める。
(大神神社に祀り、出雲大社に押込める)
②その根幹思想として、大国主を地上(国津神)の最高神とした。
③相対する天照=卑弥呼(天津神)は分離祭祀する。
(100年後に伊勢神宮に祀られる)
④地方の抵抗勢力を硬軟政策をおりまぜて支配する。
(四道将軍派遣、特に吉備勢力を排除、乗っ取り)
※支配を円滑にするには、地政学的な観点を含めて、支配される側の屈辱感を薄め、支配されても仕方ないと信じさせる何かが必要である。大国主を地上の最高神として祀るという全体を貫く思想に、武力が合わさることで納得性と永続性が広がっていく。
2)その実行策
①四道将軍を派遣・・・後述
②大国主信仰を尊重した、但し銅鐸は抹殺した
国譲りの交換条件として、出雲大社を創建し大国主を押込めていた。しかし、疫病の発生を鎮めるため、世情を静めるために、大国主の力を利用した。
三輪山にご神体とする大神神社を造って祭祀を行い、地上を統べる国津神の象徴に祀り上げた。(AD350年頃)
しかし、鏡文化に抗する出雲族の祭祀の象徴である銅鐸は抹殺していった。
支配側が壊すのではなく地元民に埋納させた。元々銅鐸は埋納と掘り出しを交互に繰り返していたので、埋納させたままにしたのかも知れない。
③三輪山の麓に政治拠点移す
崇神は神武の功績をたてて橿原の地を拠点としていたが、大国主の支配方法を取り入れ活用するのが良いと悟り(郷に入っては郷に従え)、出雲勢力拠点である三輪山のふもとの纏向方面に主要拠点を移した。
統治機構は従来の物部氏たちをそのまま取り入れた。
大国主を追い出し、出雲勢力を乗っ取ったといえる。
④天照を分離し祀った
疫病退散のため、大国主と天照を分離祭祀するという方針の下、太陽神(天照)は笠縫邑(かさぬいむら)に移した。しかし、軸足は大国主重視として、奈良盆地の勢力支配に腐心したのだろう。
これは、北部九州勢力(天孫族)と距離を置きつつ、その関係にも配慮したことになる。
約100年のちに倭姫命が各地を巡り、最終的に伊勢に天照を祀った。(AD480頃)
⑤大王型前方後円墳を定めた
吉備、出雲の墳墓形式に、天孫族の象徴(鏡、管玉、鉄剣)を合わせて、大王型前方後円墳の形式を定め天孫族支配地域の墳墓形式とした。
木槨は廃し北部九州の石室方式とし、特殊器台から発展させた埴輪を周囲に並べた。
奈良盆地の吉備勢力を上書きして、乗っ取ったともいえる。
⑥前方古円墳を全国に広めた
自らの勢力拡大に合わせて、全国の豪族たちに同じ形式の墓を強制して忠誠の証とした。
四道将軍の墳墓が前方後円墳の初期型である。
又、三角縁神獣鏡を国内で作り、葬式の花輪のように配り副葬させた。
(全国で約500枚が発掘されている)
注)倭迹迹日百襲姫命
崇神はおばの倭迹迹日百襲姫命に特別な感情を持っていたのではないか。
倭迹迹日百襲姫命は素より霊感が強く、一族の中では卑弥呼の再来と期待されていたのかも知れない。疫病が流行った時に、おばの倭迹迹日百襲姫命が神がかりして、大物主を祀る託宣するが失敗する。
その後、おばは大物主の妻となり大物主の子供を宿した。しかし、霊力が強く繊細なおばは、ありえないようなことに遭遇して驚き、又は悲嘆にくれてしましい、それがもとで早産か何らかの事故で死んでしまう。大物主が夜しか現れないのに、朝に来て驚かせたという話にしたのだろう。
大物主は最高神の後裔で、その所業の所為にできず、驚き箸で突いて事故死したとしたのだろう。
夜しか帰ってこないのは不仲を表し、蛇は男性の象徴。
ショッキングな死に方の意味するところは何か?
おばは託宣に失敗し、大物主に嫁いだが、結果的に不幸な死に至らしめてしまったことを、崇神は大いに悔いて、初期の前方後円墳(箸墓古墳)に手厚く埋葬したのだろう。
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