出雲旅 遺跡を巡る 2022.5

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神武東征、その以前の世界はどうだったのか?
いわゆる、弥生時代。半島から鉄が導入され、邑は豊かなになって国となり、社会の階級化が進んだ世界。そこでは、税を取り、専任の戦闘部隊が戦い始めた頃です。

出雲旅で巡ったのは、
青谷上寺地遺跡、妻木晩田遺跡、加茂岩倉遺跡、荒神谷遺跡、西谷墳墓群
どれも、古代を探る代表的な遺跡です。

そして、奈良盆地でも唐子・鍵遺跡を訪れました。
正直、出雲と比べると、規模が小さく展示内容が少ない。楼閣を強調し過ぎでした。

青谷上寺地遺跡
街の中に小さな資料館がありました。展示内容は豊富です。
先ずは、良く知られている人骨の大量出土です。

この青谷地区に武装した兵が押し寄せ、大量殺戮した現場だったのでしょう。
どこから兵たちは来たのか?
近隣の邑から来たとは思えず、鉄製武器を所有し、戦いなれた人々が殺した。
いわゆる、2世紀末の倭国大乱の一つの凄惨な現場ではないでしょうか。

他にも、木製品、鉄製品、土器などが多数発掘されています。
舟の一部が発見され、復元されています。
この船に乗って日本海側を行き来していたのが判ります。
半島との交流は、北部九州(対馬)経由、又、直接、日本海を渡っていたのでしょう。

妻木晩田遺跡
海岸から近い丘陵地に広がる大きな遺跡です。
青谷上寺地遺跡と同様に、土器、鉄器、木製品など多数出土しています。
日本海側各地との交流、大陸・半島との交流が確かめられています。
栄枯盛衰は世の常で、3世紀前半には縮小してしまいました。
2世紀末の倭国大乱、北部九州勢力の侵略の結果、邑は衰退してしまったのでしょう。

展示は全体をよく見て作られています。勉強になりました。

加茂岩倉遺跡、荒神谷遺跡
青銅器の大量出土です。でも、生活の匂いはしません。
青銅器の墓場とも言えるでしょう。
なので、出土品そのものと出土地の地勢などが興味の対象となっています。
道路建設の途中で発見されましたが、となると他にもありそうと思ってしまいます。

加茂岩倉遺跡は展示館はありますが、これら銅鐸の由来などの考察はありませんでした。

荒神谷遺跡は立派な展示館があり、ボランティアの方々が丁寧に説明されます。
出雲大社脇の「島根県立古代出雲歴史博物館」で詳しく展示されています。

西谷墳墓群
四隅突出型古墳です。疑問だらけです。
西出雲なので、稲佐の浜辺りから上陸してきた渡来人の影響をもろに受けているのでしょう。

新羅では石積木槨墓が主流でしたが、それは二段階で造られます。先ず、ちょっと掘って木槨木棺を置いて石を上に積み、石で覆われた一段目が終了します。すると、そこで死者への祭祀を行います。その後に全体を土で覆って完成させます。

四隅突出型古墳は、その一段階目で終わったままにしたのに似ているかもしれません。
但し、新羅では四隅に突出されるものはありません。
いずれにしても、新羅系渡来人の影響を強く受けているに違いないと思われます。

 

唐子・鍵遺跡 
変わって、奈良盆地最大規模の環濠集落跡です。
確かに広場にありますが、出雲の遺跡と比べるとちょっと出土品などもすくない展示。

大型建物跡と勾玉などが強調されすぎのようです。吉野ヶ里遺跡などを意識しているようです。
大きな池の存在は、当時の奈良盆地は湖でそこが干上がるにつれて開拓が進んだ証のようです。
つまり、新開地であり、決して、邪馬台国の場所ではありません。

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