日向三代に会いたかったが、護衛艦に会った 2022.11

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瓊瓊杵、山幸彦、ウガヤフキアエズの三代に会おうと巡りました。
何処までが本当で、創り事なのでしょうか?
高千穂から西都原古墳群、青島神社、鵜戸神宮と代が下るごとに南下します。
3世紀半ばのだいたい30年間で三代が継がれましたので、実際は兄弟か、叔父甥の関係だったのでしょう。
西都原古墳群と青島神社は神話に合わせた後付け感があります。鵜戸神宮は後述するように、海の民と山の民が交錯した場所と歴史を背負っているようでした。
実際に邪馬台国から日向を征服したのでしょうが、その事績がどれも芳しくなかったのかも知れません。天孫神話にそぐわない史実があったのか、全く知られていない場所、古墳などがあるかもしれません。

神武の足跡 宮崎で伝えられている話
狭野神社(西諸県郡高原町)で生まれ育ち、宮崎神宮そばの皇宮屋(こぐや)で政治をとる。
皇宮屋から湯之宮に進んで泊まって、都農では武運長久を祈り、美々津港を出港した。
ここには、神武天皇が腰掛けた「腰掛岩」もある。船出の時に、団子づくりのため住人たちが、「起きよ、起きよ」と寝ている家を起こして回る「おきよ祭り」を生み出した。

西都原古墳群(瓊瓊杵尊)・・・神武の祖父
広々した台地に古墳が山盛りでした。
遠くには自衛隊新田原基地のF15が飛んでいて、神武天皇社の傍の芦屋基地のT4と共に、自衛隊を身近に感じます。
鬼の窟古墳には入ることができました。古墳を囲む”輪っか山”は珍しい形です。

陵墓参考地の男狭穂塚・女狭穂塚は貝型古墳と前方後円墳です。又、4世紀以降の古墳群との案内もありますので、3世紀半ばの瓊瓊杵命と木花開耶姫のお墓ではありません。
地元の研究者 北郷さんに依れば、5世紀前半の諸県君牛諸井(もろがたの うしもろい)とその娘髪長姫(かみながひめ)であろうとのことです。(「古代日向・神話と歴史の間」より)
諸井一族は神武を育てた豪族かも知れません。なので、丁重に葬られたというのは納得できます。
1895年(明治28年)に政府がここを陵墓と指定した背景と理由、更に4世紀以降の古墳群とされるようなった今もそれを変えられない理由を探ると、愚かな昔と事なかれの今が見えてきます。

青島神社(山幸彦)・・・神武の祖父
海抜5mの海に面した神社です。ハザードマップでは最大5-10mの津波予想ですので、過去に何度か襲われたでしょう。
神話に合わせて奈良期以降に創られた神社なのでしょう。
ということは、山幸彦はいなかったと言われてもしょうがないですね。
海の中のお姫様、豊玉姫が出てくるだけで、おとぎ話の世界の元になっているようです。
兄の海幸彦は、この南西の一山超えたところにある潮嶽神社にに祀られています。

ただ、山の民=山幸彦(邪馬台国)が海の民=海幸彦(日向)征服したというストーリーを、
天孫降臨から導き出したと言えるでしょう。

鵜戸神宮(鸕鶿草葺不合)・・・神武の父
本殿は海抜8.5mですが、判りずらいハザードマップを見るかぎりギリギリセーフのようです。
古代から海洋信仰の聖地で、ずっとここに続いていたようです。
”うがやふきあわせず”とはどのような意味なのでしょうか?
Wikiによると、豊玉姫が建てた産屋の屋根(鵜の羽)が出来上がらないうちに、草(かや)につつまれて、波瀲(なぎさ)にすてられた。とあります。なんとも異様な出産時の光景です。
しかし、海食洞の中の本堂は特異で、趣がある神社です。又、運玉を投げて運勢を占うという遊びもあって、人を惹きつけるところです。

日向灘(鵜戸神宮)は、熊野灘(熊野大社、花の窟屋、伊勢神宮)、そして鹿島灘(鹿島神宮)につながる海の道の出発拠点でした。

護衛艦隊に会う
当日、青島神社から鵜戸神宮の途中で、沖合に護衛艦9隻を見つけました。調べると、米軍と対機雷戦闘訓練を行っていたようです。この日向灘は古代から続く重要な海域であると再認識した次第です。

霧島神宮(瓊瓊杵尊)・・・南の高千穂
南の高千穂にも高千穂峰があります。もっと高い山は韓国岳です。
その麓に霧島神宮があり、瓊瓊杵尊を祀っています。
さあ、北と南のどちらに瓊瓊杵尊は降り立ったのでしょうか?
神話的には南の高い独立峰である高千穂峰が合いそうですが、降りるは中央から地方に下る意味です。なので、北部九州から南の日向を攻めるため、北の高千穂を経由してきたという考えが合っているようです。

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