卑弥呼のお墓に登った

TOPに戻る

「卑弥呼の墓は朝倉にある」ならば、行ってみようと言う事で、九州旅で朝倉周辺を訪ねました。
初めての土地です。筑後川の北側に広がる平野部とその背後には山々が連なります。大水害にあったのは5年前ですが、市内にはその痕跡はありません。
山間部では酷い洪水と山崩れに見舞われ、今もその復旧作業が続いているようです。

平塚川添遺跡は吉野ヶ里よりも大きい、邪馬台国の中心地ではないかと聞いていました。この公園はそれなりに大きいのですが、思っていたほどの大きさではありませんでした。奈良の唐子鍵遺跡と同じくらい大きさの印象です。

その遺跡公園の向うにはブリヂストンの大きな工場と他の大きな倉庫などが立ち並んでいます。
そう、ここは、工業団地造成の時に、土器などがたくさん出てきましたが、そこで造成を止めることなく進めてしまいました。吉野ヶ里は工事を止めて発掘したのとは大違いです。
公園の様子を撮りましたのでご覧ください。

しかし、この遺跡公園は、弥生遺跡群のほんの一部でした!
ここは台地で、ハザードマップを見ても洪水危険地域ではありません。大地を取り囲むように弥生遺跡群があります。赤線で囲んだエリアです。巨大なブリヂストン工場の何倍もあります。
平塚川添遺跡公園よりもめちゃめちゃに大きな土地です。
ここに弥生時代の人々は生活していました!

平塚川添遺跡は筑後川の北岸、現在の朝倉市一帯に広がり、吉野ヶ里を上回る規模です。
ここは、邪馬台国(耶馬臺国・・・ヤマダコク)の本拠地でした。
魏国の人は、“ヤマダ”と聞いて耶馬臺(ヤマダイ)と書きました。それを邪馬台、ヤマタイ、ヤマトなどと言い換えて今日まで来ています。
そして、卑弥呼の墓は、長田大塚古墳で、山田SAの隣にあると講演を聞きました。
詳しくは、「卑弥呼の墓は朝倉にある」をご覧ください。
天照が稲をまいたのは、“長田”で、その地名が残るこの地に葬られたといいます。
卑弥呼は魏国の当て字で日巫女が本名、天照の別名です。
麻氐良布(須)神社は、元来、天照神社です。
そして、朝倉の語源は、麻氐良の誤読の麻久良(アサクラ)です。

まとめると、下図のようになります。
・実際の平塚川添遺跡は周辺の弥生遺跡分布を最遠部とする太い赤線で囲んだ部分となる。
その部分はNHKハザードマップによる洪水が無いエリアとほぼ重なる。
・その面積は、西に位置する吉野ヶ里遺跡の数倍の大きさとなる。
・筑後川を遡るエリアに、長田大塚古墳(卑弥呼の墓)、麻氐良布神社(天照神社)、
橘広庭宮(斉明の宮)、宮恵蘇八幡宮(斉明の殯場所)など、重要施設がある。
・斉明は百済救済を天照(卑弥呼)に祈願するため、皇親一同を引き連れてこの地を訪れた。
新羅に勝利していたら、朝倉に遷都しようとしていたと思われる。


では、卑弥呼のお墓(長田大塚古墳)です。
個人所有の古墳で微妙ですが、麓から道もあり登ってきました。
ご迷惑をおかけしていたら申し訳ありません。


如何でしょうか?
先ずは地中レーダーを使って、竪穴石室などがあるのかどうか調査が待たれます。

周辺の重要施設、史跡などはこちらからご覧ください。

大己貴神社の遥拝所
朝倉市の隣、筑前市にあります。 ここが最も古い神社で、奈良の大神神社はここから派生したそうです。 ここは3世紀の邪馬台国(耶馬臺国)の世界、奈良の大神神社は崇神期で4世紀半ばなので、その通りと言う事になります。
この神社があるということは、出雲勢力(自然信仰勢力)が進出していたと判ります。宗像大社のお姫様も大国主と結婚していたので、南下して筑後川一帯まで、自然信仰と鉄を使用した生活習慣が広がっていたと言えます。
素戔嗚と天照の誓約を合わせて考えると、この地でも、自然信仰(大己貴神社)と太陽・鏡信仰(麻氐良布神社)の勢力争いという図式も成り立つのでしょうか?



橘広庭宮はこちらです。

ここが比定地ならば、祭祀の場所ではなかったかと思います。
斉明天皇はここで戦勝祈願をしたのでしょうか?

最後は麻氐良布神社です。
柿畑が下に広がっています。
ここには天照を祀っていました。斉明はここで祈ったのかも知れません。


金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡 日田で出土

九州旅で訪れることができませんでしたが、筑後川を約25km遡った日田市のダンワラ古墳では、鉄製の「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」が発見されています。
魏の曹操の墓から出土した鉄鏡と酷似しているので、魏から倭国に送られた鏡であることは間違いありません。卑弥呼の墓から盗掘されたのでしょうか?
魏の皇帝から皇子に送られた鏡の大きさは、ほぼ出土した鏡と同じであり、魏が卑弥呼に送った可能性は高いです。卑弥呼の鏡100枚の一部だろうと推測されます。
当時、魏は銅が不足しており、鉄鏡が盛んでした。

 

TOPに戻る

コメント

  1. 古屋公夫 より:

    邪馬台国は音読みでヤマト、倭、大和皆同義です。
     卑弥呼の墓も長田大塚古墳ではありません。
     初代卑弥呼の墓は箸墓古墳、ニ代卑弥呼の墓は築山古墳です。

    • tadayuki より:

      ありがとうございます。
      様々なご意見があるようですね。

  2. もんち より:

    同じ場所に行ってきました。同じく長田大塚古墳は卑弥呼の墓、山田という地名が邪馬台国から来たものと感じることができました。
    この辺を歩くと奈良の畿内説は雰囲気も違い、魏志倭人伝とは全く違う、倭国の亜種であると感じます。本当の邪馬台国はこちらであったと思います。

    • tadayuki より:

      もんち様
      6月に投稿頂きながら、、返信遅れて申し訳けありません。
      1月の邪馬台国の会に、この卑弥呼の墓について、講演があります。
      詳細は邪馬台国の会のHPで、ご確認ください。
      既ににご存じでしたらご容赦ください。
      ご投稿ありがとうございました。

      西忠行(岸本忠也)

タイトルとURLをコピーしました