=第五章= 4.創作された熊野ルート

ここで、第一章で述べたように、古事記、日本書紀とも、神武進軍ルートを創作している。ここでは、「熊野ルート」と呼ぶ。
実際には、神武は紀の川・吉野川を遡って宮滝に至り、宇陀方面から奈良盆地に突入したのに、記紀では、紀伊半島をぐるっと迂回したことにした。
その理由を再度、簡単に述べると、
①ごとびき岩(現神倉神社)で天啓を受け、この東征は天意であるとした。
②命溢れる熊野で、一度死んで生き返るのは、侵略者である九州人を、天意を持つ貴人として人格変換させた。
(九州は遠く野蛮な神武であるが、紀伊半島の熊野で生まれ変わったのなら、同じく自然信仰を尊ぶ人々となるで、支配を受け入れやすくなる、とも言える。)
③太陽の運行を司る八咫烏を先頭に宮滝に降り立つのは、瓊瓊杵尊が高千穂の峰に降り立ったのを模して、天孫族であることを明確にした。
と考えられる。

 

拡大 古代紀ノ川をさかのぼる

日本書紀によると、初戦敗退後、5月8日に山城水門(泉南市)、その後、竃山(紀ノ川河口)に五瀬命を葬り、6月23日にそのすぐそばの名草邑(紀ノ川河口)で戦っていた。その後、8月2日に宇陀に居たとされている。
泉南から近くの紀ノ川河口までが一カ月半紀ノ川河口から紀伊半島を回って上陸を繰り返し、熊野の山道を通って宇陀に辿りつくのには、同じく一カ月半の行程である。迂回していてはとても一カ月半では宇陀につかないだろう。
古事記と日本書紀で、吉野(イヒカ)、国栖、宇陀の行程が逆になっているのも何か作為を感じる。
古事記、日本書紀とも、かなり無理した日程記述であり、実際には、神武は紀の川・吉野川を遡ったと思われる。

このルート途中に、高天原の神々が登場するのも、熊野を進軍させたい意思が働いているように感じる。古事記と日本書紀両方を創作させるには、かなりの手間と労力が必要だった。若しくは、当時は、熊野ルートと考えるのが、過去から知られていたので、問題なく、このように記述されたのであろうか?

更に、崇神期にその北方の伊勢神宮に天照(卑弥呼)を祀っていたのに触発されたかもしれないが、日本書紀では、熊野の花の窟屋に伊邪那美の墓を置いてる。
命溢れる熊野と熊野灘(常世、黄泉の国)を意識した配置である。
これには、宮滝(吉野宮)に31回も訪れた持統の想いがこめられている。

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