大伯(大来)皇女と大津皇子の姉弟 紀伊半島一周の旅

伊勢斎宮跡と葛城二上山です。

大津皇子は川島皇子の讒言により謀反の疑いをかけられ、天武が亡くなり三週間後には捕らえられて自死を強要された、と伝えられます。686年のことです。疑いをかけられた発端は、斎王である姉の大伯(大来)皇女に会いに行き、何か相談したのではないかと万葉集は示唆しています。
大伯(大来)皇女は歌います。
「我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に我れ立ち濡れし」と
「ふたり行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ」です。

更に、大津皇子が殺され都に連れ戻された後の歌二首、
「神風の伊勢の国にもあらましを なにしか来けむ君もあらなくに」
「見まく欲(ほ)りわがする君もあらなくに なにしか来けむ馬疲るるに」

又、二上山に埋葬された後の歌二首があります。
「うつそみの人にあるわれや明日よりは 二上山を弟背(いろせ)とわが見む」
「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど 見すべき君がありといはなくに」

ただ、大伯(大来)皇女は父天武の菩提を弔うために伊賀国名張郡に昌福寺を建立したともあります。(奈良薬師寺縁起)弟大津皇子と父天武の両者への気持ちが込められているようです。

今回、斎王宮と合わせて、二上山の麓にある鳥谷口古墳(大津皇子の実際のお墓とされています。)を訪ねましたが、先ずは斎王宮跡です。

二人の母親は太田皇女ですが、姉弟は仲良く信頼しあう間柄だったのでしょう。

姉は初代の斎王で、弟は将来を嘱望された皇子。殉死した皇子の妃である山辺皇女(天智の娘)ら三人をみて、叔母の”さらら”(持統)はどう思ったのでしょうか?

葛城にある大津皇子のお墓です。

”さらら”(持統)は夫天武の死を非常に悲しみ悼む中、川島皇子の讒言に振り回され、少しでも疑いのかかる行動(大津皇子の伊勢行き)をみて、激怒したのでしょうか?
もしくは、息子草壁皇子の競争相手を排除できる好機ととらえたのかも知れません。

副葬品はあったのでしょうか?
壁画などもないようですので、他の皇子たちの高松塚、キトラなど比べると寂しいですね。

閑話休題
蘇民将来子孫家門
伊勢を走っていると、各家の玄関上に飾りが多くありました。
なにかと、伊勢うどんを戴いたやまと茶屋さんで聞くと、その説明資料を貰いました。
蘇民将来と言う人が、須佐之男命を家に泊め厚くもてなし、疫病退散のためこの飾りを得たという話が書かれています。(拡大して読んでください)
古代、この地方に須佐之男命が来ていた証でしょうか?

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