壬申の乱 大海人と”さらら”が祈り守ったのは? 紀伊半島一周の旅

※訪問順で記載しています。桑名と朝明郡が前後しています。

”さらら”(持統)は桑名で後方支援
壬申の乱のとき、二人は吉野から東に向かい伊勢湾(熊野灘)に到着しました。
そこで、二人は朝明郡で勝利祈願を行い、”さらら”は交通の要衝である桑名で後方支援に回りました。幼い草壁皇子、大津皇子を守りながら、兵站などを指揮していたのかも知れません。
その場所には、今はお寺と碑があるのみです。

朝明郡の遥拝所は海を一望できた
天武は二人で勝利を祈願した。その遥拝所は海を一望できる地なので、伊勢に向かって遥拝したという説は本当らしく思えます。
そして、そこは朝明郡の政庁でした。現在は久留倍官衙遺跡(くるべかんがいせき)として発掘が行われています。

政庁跡は久留倍官衙遺跡(くるべかんがいせき)
そこは、伊勢国朝明(あさけ)郡で、当時は既に政庁、正倉などが整えられていた場所です。
現在、久留倍官衙遺跡(くるべかんがいせき)として史跡に指定され、くるべ古代歴史館で当時の様子を展示しています。
添付写真に詳しく載っています。興味深いですね。


閑話休題

聖武天皇は天武の跡をなぞった

又、二人の子孫である聖武天皇は、壬申の乱のルートをなぞるように、東国行幸を行っています。
これは740年のことですが、平城京を出発して最後に恭仁京に遷都してしまいます。
天武の後をなぞりすがりたかったのでしょうか?

そして、744年には難波宮へ、745年には紫香楽宮へ遷都して、同じ年に平城京に戻っています。
何故、何度も遷都したのでしょうか?
謎だらけですね。

 

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