花の窟と産田神社は稲でつながる 紀伊半島一周の旅

古代に興味を持つきっかけとなった場所、六年ぶりの花の窟です。

宮司さんがご親切に、古代米、剥がれ落ちた岩、地元の研究家(桐村英一郎さん)の事などを教えてくださいました。
「イザナミの王国 熊野」を書かれた桐村さんは、徐福伝説上陸の地、町にお住まいのようです。”波田須”は徐福伝説に基づき、秦住・秦栖(はたす)から名付けられたとのことです。

お綱は古代から稲わらで編んでいた
長く張ったお綱(しめ縄とは呼ばない)は、稲わらを結い上げて作ります。

「有馬の稲穂」という東紀州の昔話が伝わっています。
内容は、伊邪那美が七里御浜で釣りをしているときに、漂っていた青々としたものを釣り上げてみたら、中にはハマユウの葉に幾重にも包まれた稲穂をが入っていました。
その稲穂を近くの沼に撒いておいたら稲が実り、この地方の稲作が始まったとあります。
『いのちのたね』の草、『いねの苗』と呼ぶようなったそうです。

後述するように、産田神社周辺で稲作が行われており、大正時代までは南方種の細長い赤米作られていたそうです。つまり、この地では、稲は黒潮に乗り南方より伝わってきた」と言う事です。
伊邪那美が稲穂を拾ったというのは後付けですが、稲穂が南からやってきたのは事実でしょう。
花の窟神社隣のお綱茶屋では、特産品である古代米「いざなみ米」を使用したうどんやおにぎりなどを販売しています。

※WEB LOVEGREENより、ハマユウ(浜木綿)の種は厚い皮に覆われて水を通さず軽いため、海に浮かんで漂流し、流された先の地域に分布を広げる性質があることから、海沿いに咲くハマユウ(浜木綿)の種が、波に乗って遠くへと運ばれる様子に由来して「どこか遠くへ」という花言葉が付けられました。とあります。

※浜木綿は宮崎県の県花になっています。宮崎で”ハマユウ”の名前は、南部、青島神社から鵜戸神宮の辺りに店名に冠した店も多く、「JAはまゆう」もあります。

熊野は宮崎とつながっていた証左の一つになるのではないでしょうか?

更に話しは広がります。
熊野速玉大社には梛木の木があり、鹿島神宮息栖神社にも同じ木があり、沖縄に送られています。中世の補陀落渡海では、熊野を出て沖縄に到着した日秀というお坊さんもいますので、熊野は鹿島、日向、沖縄とつながっています。海の道ですね。

昭和天皇が訪れていた
下の図は、昭和37年5月21日に昭和天皇がここを訪れたときの貴重な写真です。(花の窟神社の壁にかけてありました。)これを見ると、お綱の張り具合がよくわかります。又、岩肌は現在よりもより露出していたようです。

この前に、現上皇(平成天皇)が皇太子時代の昭和23年4月10日に、熊野地方見学の途中に訪れています。そのあとに、写真にあるように父の昭和天皇が訪れ約3万人の市民が迎えました。
歴代天皇は伊勢神宮には来ても、ここ花の窟までは来ていなそうです。中世の熊野詣でのついでに、足を延ばしていた上皇、天皇は居たかも知れません。

昭和、平成天皇が訪れた理由を知りたいですね。天武、”さらら”は訪れていたと思っていますので、その足跡をなぞったのでしょうか?

崩れた岩肌
長年の風雨にさらされて岩山の表面が脆くなっていたようです。
この岩は、砂岩、礫岩などでしょうか?すぐそばの鬼ヶ島は波に洗われて、岩が大きく浸食されています。伊邪那美の墓をここに持ってくるときに、鬼ヶ城の地形も大きく影響しているように思われます。

鬼ヶ城の風景です。

七里御浜と花の窟
花の窟についたのは夕方、そのまま道の駅花の窟に泊まり、日の出を迎えました。
海岸(七里御浜)から見た花の窟です。
なかなか、いい感じです。

 

産田神社の回りは「津の森遺跡」で稲作地
伊邪那美はここで軻遇突智神(カグツチノミコト)を産んで、死んで、花の窟に葬られたとあります。
古代の神社は建物がなく、ここでは『神籬(ひもろぎ)』(神の宿るところ)と呼ばれる石で囲んだ太古の祭祀台(祀り場)へしめ縄を張り神を招きました。
左右の2カ所残っており、古さをものがったています。
宗像大社の

津の森遺跡は 産田神社 の周りに広がっています。この地方では最大の遺跡です。今は田畑や人家があります。遺跡の範囲は、南北250m、東西500mにわたっています。最近では、1974年と1980年に発掘が行われました、と言う事です。


熊野は神話創成の舞台となった

日本書紀、古事記で神武がこの浜に上陸した事と伊邪那美の墓をここに置いたのは、天武と”さらら”(持統)と考えるのが妥当です。(原案は誰が作ろうとも承認したのはトップでしょう。)

弥生以前から、この地には、南方から(琉球、日向)、東から(東海)海の道を辿った人々が住みつき、稲作を行い、岩山と海をモチーフにした何らかの祭祀を行っていたと考えられます。
天武と”さらら”はその生活、文化、習慣に、記紀の物語を上塗りしていきました。

倭姫により伊勢神宮に天照が祀られていたのを、改めて、式年遷宮などの形式を整えて、天孫族の統治正統性を永続させられる仕組みを作りました。これができたのは、伊勢を含めたこの地方が熊野灘に面して常世につながる地であり、背後の大台ケ原などから滔々流れる五十鈴川、熊野川は生命の生成の源となっていたからでしょう。

さて、紀元前3世紀の徐福がどのようにこの地に影響を与えたのか、天孫族永続の助けになったかは、別の機会に探りたいと思います。ポイントは神仙思想、不老不死思想とこの地だけではありませんが、列島各地にある古来ある自然崇拝、先祖崇拝との関係を解き明かす必要がありそうです。

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