吉野は幾重にも時代が重なり交じり合っています。その交じり合いを下の四つの時代に分けて、代表する史跡を巡りその実相に触れました。
ご覧ください。
①自然崇拝期 ~AD3世紀くらい迄は、水中心の自然崇拝と祖霊信仰でした。
②出雲勢力浸透期 ~BC3世紀頃からAD4世紀頃迄、その後も大国主(国津神)信仰残る
更に、神仙思想も入ってきた時期です。
③ヤマト王権支配期 AD3世紀末頃から8世紀初頭まで。出雲、吉備、九州が交ざりあい、前方後円墳から八角墳へと神仙思想、仏教との融合が進みました。
④修験道共存期 7世紀から役小角が始め、権現思想が広まり神仏習合が進みました。
①自然崇拝時時代の代表格は、丹生川上神社です。
今回、上社、中社、下社の三つを巡りました。
三社とも水辺にあります。吉野川本流、二つの支流沿いに社殿がり、全て水神を祀っています。
上社跡(宮の平遺跡)から、辰砂で色付けした土器が見つかっています。
丹生と言う名前からすると、水銀(辰砂・・硫化水銀)がこの地域で採れていたと思われます。しかし、現在はこの吉野では銀鉱は産出されてません。元々、水銀の鉱床は薄く採掘されつくされている可能性があります。
吉野川は中央構造線上にあり、東は三重県多気郡(伊勢神宮の隣)、西は和歌山県日高郡(日前神宮・國懸神宮があります)に水銀鉱山がありました。
なので、この付近に水銀鉱床があったのは確かなのでしょう。因みに隣の宇陀には大和水銀鉱山がありました。
上社は宮の平遺跡に縄文から弥生にかけての祭祀場所、下社は丹生山頂に矩形の石群があり、弥生以前の祭祀場所だったようです。
中社も、その下か周辺に何か祭祀場所があると想像してしまいます。
何故、上社、中社、下社があるのかと言うと、それぞれの勢力争いの結果です。中社地域出身の学者が現中社が上社であると唱えて、政府告示で上社、下社は中社に包括されました。(1915年)
第二次大戦後に、それぞれが又独立しました。
話は飛びますが、熊野本宮大社大斎原は命溢れる熊野川の河原、速玉大社も川傍で加えてゴトビキ岩の磐座信仰の場所で銅鐸も発見されています。那智大社言わずもがなの那智大瀧がご神体です。
自然信仰に出雲勢力が加わり、本宮大社の祭神は素戔嗚命と同列視されています。
伊勢の蘇民将来子孫家門(厄除け)は須佐之男命が伊勢に来て与えたと伝わります。
-上社-
本来の上社の社殿は大滝ダム建設により湖底に沈んでいます。現在の社殿は1998年に高台に移転しましたが、その跡地に遺跡が発見されています。宮の大平遺跡で縄文時だから続く遺跡です。
この遺跡の一部が現在の社殿横に再現されています。
祭神は高龗大神(おかみのおおかみ)
龗(おかみ)は龍の古語であり、龍は水や雨を司る神として信仰されていた。・・・Wiki
この神社は吉野川の水辺に建ち、長い間、水と生命の再生を祈る自然崇拝の場所だったようです。
宮の平遺跡からは石器と土器が見つかっていますが、鉄器は無いようです。しかし、南九州の土器、福井県の石器なども出土しており、遠隔地との交流がありました。南に山を越えると熊野で、前述したように熊野は南方、日向、沖縄とつながっています。
神武東征熊野ルートを考案したのは、このような交流実態に基づいているのでしょうか。
- 宮の平遺跡より 弥生時代の石組み
- 眼下に龍神湖を望む
- 平成天皇がここまで来て、魚を放流しました。この地で開催したのには意味があるのでしょう
ダム建設の経緯は、1958年の伊勢湾台風による吉野川の大洪水ににより上流に大滝ダムを造ることにしたことに依りますが、既に上流に大迫ダムでの水没問題もあり、反対運動が激烈だったようで、完成までに長い時間がかかっています。地すべり問題もあります。
(工事着手1962年、竣工2012年)
※大名持神社の横に洪水の高さを記念する塔があります。当神社はちゃんと高台に在って、洪水の被害は免れたようです。(何百年もの間には、伊勢倭台風時並みの洪水があっただろうと想像できます。
-中社-
吉野川の支流、高見川沿いにあります。
祭神の「罔象女神(みづはのめのかみ)」は、水一切を司る神様です。
東の滝は、「龍神の瀧」で、龍神が棲むと言われています。神仙思想の影響を受けて龍神が居るとなったのでしょう。
対岸に、日本書紀の記述に沿った「神武天皇聖蹟丹生川上顕彰碑」があります。
中社の周囲には縄文~弥生の遺跡のようなものはなく、当時の祭祀場所は現在の中社の社殿下にあるのかも知れません。上社のようにダム工事で移転するなどの外的要因が無いと、掘るわけにはいきませんね。
- 中社本殿上に馬の扁額
- ここに吉野宮の前身(故宮)があったようだ
- 水神は龍神、神仙思想の影響受けている
- 神武天皇顕彰碑
- 祭事の時に神社に御神酒が供えられる元となった故事である
- 東の瀧~川幅は広くない
小川まつり(太鼓台奉舁安全願祭)
丹生川上神社では、10月第2日曜日に、が、氏子8ヶ大字より8連からの太鼓台が境内所狭しとばかりに競い合います。別名〝喧嘩祭〟ともいいます。とあります。お祭りの様子はこちらです。
いつもの静寂した境内の様子とかけ離れ、多くの人(約1700人)が集まっています。
-下社-
丹生川のほとりに建っています。丹生川沿いですが、冒頭の地図を見てわかるように、上社、中社からは離れて下流にあります。
祭神は、闇龗神 (くらおかみのかみ)で水神です。
以前は高龗神(現上社と同じ)でしたが、政府お達しにより大正時代に祭神の変更があり、現在の祭神となりました。「
闇」は谷間を、「高」は山の上を指す言葉である。・・・Wikiより
白と黒の馬が居ました。神馬でしょう。」
「当神社背後の丹生山山頂に、祭祀遺跡と思しき矩形の石群があること、また、社前を流れる丹生川流域には丹生神社が点在すること、かつては付近に、御酒井・五色井・吹分井・御食井・祈願井・御手洗井・罔象女井・降臨井・鍛人井といった多くの井戸が湧出していたことなどから、古くからの水神信仰があった可能性もある。」・・・Wikiより
結果、どの神社(場所)が丹生川上の本命なのでしょうか?
答えは、そのいずれも、その通りであるという事なのでしょう。本命とかランク付けするのは後世、特に明治期の考え方です。自然崇拝は自然に起こっているので、それぞれの場所がそれぞれの方法で祀り事を行っていました。
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