大名持神社と吉水神社の銅鐸 ②出雲勢力浸透期  伊半島一周の旅


②出雲勢力浸透期の代表格は、大名持神社と吉水神社の銅鐸です。

又、この一帯は飛鳥時代には蘇我氏の所領となっています。

大名持神社です。
吉野川沿いの旧伊勢街道と旧東熊野街道の分岐点で、後背地に妹山(260m)がありご神体となっています。祭神は大名持、須勢理姫、少名彦の三人です。正に出雲の中心人物たちです。
妹山は、忌山とも呼ばれて木の伐採は一切しない神聖な山として現在も受け継がれています。

駐車場は数台しか停められず、階段を上ったところに境内がありますが、階段脇には伊勢湾台風で大洪水になったときの洪水レベルを示す金属の玉をありました。この神社は大丈夫だったようです。

この場所は、ともに天照を祭神にして八咫鏡を持つ伊勢神宮と和歌山の日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)との中間にあります。中央構造線上に三つの神社があるのです。構造線沿いには水銀などの鉱物が産出しますので、その確保の意味を込めてここに大国主をまつったという考えもあります。

又、奈良の大神神社とヤマト王権との関係をこの吉野も当てはめたように思えます。

この神社を柿本人麻呂が歌っています。
大汝少御神の作らしし妹背の山を見らくしよしも
大国主命と少彦名命がお作りになった妹背の山は見るからに素晴らしい。

宮滝で”さらら”(持統)と共に万葉集の編纂をしていた時に、すぐそばにあるこの神社と妹背を讃えているのは、現人神の天孫族も国津神が国造りの主体、主人公であると理解していたのでしょう。
又、平安時代初期には、この神社の社格は春日大社と同じ正一位でありました。
この神社(国津神)を尊んでいた証です。
それほど、飛鳥時代ではこの神社を重要であるしていました。
奈良の大神神社とヤマト王権の関係が、この大名持神社と上流の吉野宮に投影されているようです。

その後、江戸時代までは神宮寺(大海寺)がありましたが、明治初年に潰されました。
神仏習合を嫌った革命政府の暴挙の始まりです。

吉水神社の銅鐸
吉野山の吉水神社(神仏分離の前は金峯山寺の一角)に銅鐸があります。
出土地不明で、平田篤胤によれば豊臣秀吉が源蔵という部下に授けたと言います。
この吉野で出土したものを秀吉が我が物としていたかも知れません。

形式は近畿式銅鐸で、3世紀後半であろうと推測され、
終末期に近いものです。
出雲勢力が浸透していた最後の頃と重なります。

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