世尊寺(吉野寺)
御朱印を戴きに上がったら、住職さんが本堂まで上げてくださり説明をしていただきました。吉野寺からの歴史と、この辺りのお祭りはたいそう賑やかで喧嘩が始まるほどだったそうです。丹生川上神社の小川まつりのようです。(丹生川上神社編に掲載)
ここを訪れたのは、なんと言ってもここが「吉野寺」だったことです。
吉野寺は飛鳥寺の様式を取り入れて、仏教が入ってきた初期に建てられています。この辺りは蘇我氏の所領でしたので、飛鳥寺と同様に蘇我氏が建立したのでしょう。
蘇我氏が推す古人大兄皇子が皇位争いに敗れて飛鳥から逃れて蘇我氏所領の吉野寺に籠りました。しかし、中大兄皇子は追及を重ね殺しました。
又、大海人皇子と”さらら”(持統)が天智の肝謀を避けて、大津宮からたった二日間でこの吉野宮まで逃げてきました。ここを選んだのは、”さらら”の祖父は蘇我倉山田 石川麻呂で、蘇我氏ですので、この吉野寺は格好の隠れ地でした。
伽藍配置は下図のようですが、東塔は秀吉が伏見城に移設してしまいました。秀吉は吉水神社に銅鐸を持ってくるわ、由緒ある塔を持ち去るわ、吉野の花見をするわ、やりたい放題ですね。
世尊寺、比曽寺跡など呼び方は色々ですが、吉野寺跡としてよいでしょう。
- 比曽寺跡全体図
- 世尊寺山門
- 世尊寺(比曽寺跡)伽藍配置
- 東塔跡説明
- 東塔跡
- 西塔跡(焼失)
次は、住職さんからいただいたこのお寺の写真をまとめました。
お堂の中には、役小角の像もありました。
勝手神社
吉野山に来るたびに訪れていますが、五節舞の元となった踊りが披露された場所、又、静御前が踊らされた場所として有名です。
今は社殿焼失の跡地がさみしい姿となっています。
- 勝手神社入口
- 社殿がありません
- 焼失前の社殿写真
- 由緒書
浄御原神社
宮滝より上流にある国栖の人々の国栖奏で有名な神社です。
宮滝が吉野川を遡り、川沿いの細い参道を歩くと到着です。
小さい社殿で、12人の翁(お爺さん)が舞を舞う姿は、他のユーチューブで確認できます。お供えは、アマガエル、ウグイ、お酒などです。
ここに天武(大海人皇子)が来たのは何故でしょうか?国栖奏の意味には地場の人々が恭順の意を表すというのも込められているようです。祭神は天武となって、名前も浄御原なので、この辺りは後付けですね。
川沿いの神社には、川、水への信仰が元にあるように思えます。
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