黒部ダムと松代地下壕はタイムトンネル

梅雨の晴れ間を狙って、黒部ダム(黒四ダム)と松代の大本営跡の地下壕のトンネルに潜ってきました。少しでも涼しいところを探して、長野県へ3泊4日の旅を目指しましたが、二つのトンネルとも太平洋戦争に関連しており、改めて戦争を感じる旅となってしまいました。

黒部ダムは敗戦の混乱、電力不足を補うため、立山連峰の深い谷に巨大なダムと発電所を造る大プロジェクトです。そして、松代の大本営跡の地下壕は、本土決戦のかけ声の下、戦争末期に天皇と日本軍と政府を疎開させるために掘りました。
まるで、太平洋戦争から続くタイムトンネルのように思えてきました。

先ずは黒部ダムからです。
ダムからのダイナミックな放水風景をテレビなどで見るにつけ、訪れたいと思っていましたが、遠くて暗くて狭くて長いトンネルが気になっていました。工事用に掘った関電トンネルは現在は電気バスが走り約15分で行き着く事を知り、なんとかなるだろうと気合い注入で乗り込みました。
映画「黒部の太陽」では主演の三船敏郎と石原裕次郎がダム造り用のトンネルを掘り完成させます。訪れた当日もダム施設ではその映画で裕次郎が被ったヘルメットなどが展示されていました。

黒部ダムとその峡谷に流れ落ちるダム放水は圧巻で、一緒に引き込まれてしまうのではと思わせます。来て良かったと、ただただ放水に見入り思わずひきつった笑顔になりました。ただ、階段が多く上り下り合計で400-500段かそれ以上あったので、膝も笑いました。

巨大ダム建設には険しい峡谷を人出頼りに荷物を運び、危険な掘削作業が続いたので、171名の方々が亡くなっています。その慰霊碑が湖岸にありました。

黒部ダム、湖全景

171名が亡くなりました

ダム施設内で工事の困難さを語り振り返る映像が流れていましたが、関電の責任者が当時の苦労を振り返る言葉の中に、”労働者”という言葉が何度も出てきました。1950-1960年代では当たり前の呼び方だったのでしょう。関電の社長を先頭に困難な工事を成し遂げたと強調するばかりで、工事担当者達へのリスペクトは感じられませんでした。

このダムの歴史を知ると、敗戦後の日本復興のシンボルでもあるこの巨大な黒部ダムが、だんだん、太平洋戦争の何故をを問いかけるモニュメントとも思えてきました。
そして、このダムの寿命はどのくらいだろうか?解体するときが来るのだろうが、解体した後はその姿を変えるのか変えないのか、など、とりとめの無く思いが巡ります。

ダム全体の風景、ダムカレー、圧巻の放水などはこちらをご覧ください。

黒部ダムから扇沢に抜けるトンネル内を走行する、電気バスの映像はこちらです。

次は松代大本営地下壕跡です。
全体配置図をご覧ください。

太平洋戦争(第二次大戦、大東亜戦争)をもろに感じさせる遺跡です。
松代を中心としたエリアに地下壕だけでは無く、大本営(陸軍?)は様々な施設を造ろうとしていました。昭和19年11月に地下壕建設が始まったとありますので、その前には日本軍は負ける予測しており、体を維持(天皇死守)しながら連合国との講和条件交渉をするため、このような施設を造ろうとしました。
因みに沖縄も本土決戦まで長引かせるための捨て石だったという話もあります。大本営は戦争する事を目的化して、頭の良い人間が集まっていたのに、結局、国と国民を踏みにじることばかりをしました。
参謀本部には超エリートが集まっていたと言いますが、世界の流れと全体像から将来を見据えた進路が取れなかったのは、連合国は強かだと言う事を勉強せず、島国の統帥権に酔いしれ、覚醒できなかった愚民の集まりだったのですね。

吉田松蔭にアジられた幕末の過激派のなれの果てというのは言いすぎでしょうか。地下壕のすぐそばに、合理主義者の佐久間象山を祀った象山神社があるのは皮肉ですね。

佐久間象山は尊皇開国を謳う合理主義者でしたが、吉田松蔭は象山の門弟でもありながら尊皇に凝り固まっていました。

現人神を信じ込まされた人々が、天皇の初めを実証的に科学的に理解していなかった結果でもあります。”さらら”の懐いと想いに詳しく書きました。

こちらは天皇御座所跡です。現在は地震研究所が使っています。

こちらは象山地下壕で、内部を見学できます。
下記図にある、ハ地区(皆神山)の地下壕は崩落がひどく入れないそうです。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました