瓊瓊杵尊のお墓は三つ 何処が本物?

天孫降臨は瓊瓊杵尊が高千穂峰に降り立つところから始まります。
・先ず瓊瓊杵(ににぎ)が笠沙の地で木花開耶姫を娶り、三人の子をもうけます。
・子の山幸彦(彦火火出見尊)は海に住む豊玉姫と結ばれ、鵜葺草葺不合命をもうけます。
・孫の鵜葺草葺不合命は母の妹の玉依姫との間に神日本磐余彦(神武)をもうけました。

大元の瓊瓊杵尊のお墓(御陵)は南九州に三つあります。
どれが本物なのでしょうか?
はたまた、神話の世界を後世に再現しているだけでしょうか?

内容
瓊瓊杵のお墓、候補は三つ
1.西都原古墳群の男狭穂塚と女狭穂塚
2.延岡の北川瓊瓊杵尊陵墓参考地
地元の方のお話しが聞けた
木花開耶姫が三人を生んだもこの辺りか?
宮崎(日向)VS鹿児島(薩摩)
可愛山陵(えのみささぎ)の意味
3.薩摩川内市の新田神社
白尾國柱の神代山稜考(抜粋)


1.西都原古墳群にある男狭穂塚と女狭穂塚

瓊瓊杵尊と木花開耶姫のお墓とされています、ここには昨年訪れましたが、男狭穂塚は貝型古墳、女狭穂は前方後円墳であることを確認でき、特に女狭穂塚は4世紀以降に建てられたのが明白です。
なので、瓊瓊杵尊と木花開耶姫のお墓ではありません。

卑弥呼(天照)は3世紀中頃、神武活躍は3世紀末頃と考えていますので、瓊瓊杵はその間、3世紀後半に活躍しました。又、前方後円墳は4世紀中頃から全国に広まり始めたと想定しています。

地元の研究家である北郷泰道氏に依れば、仁徳天皇の妃である髪長姫が女狭穂塚に、その父親の諸井君牛諸井(モロカタノキミウシモロイ)が男狭穂塚に葬られているようです。つまり、5世紀の古墳でしょう。(著:古代日向・神話と歴史の間 より)
この考え方は時代的にも合っており、有力な研究成果でしょう。

2.延岡の北川瓊瓊杵尊陵墓参考地
こちらを訪問したら、宮内庁の巡検に備えて丁度陵墓回りの清掃を行っており、その活動の中心となっているらしい方にお話を伺うことが出来ました。先ずは陵墓周辺の写真、映像をご覧ください。

お話の要約です。
御陵祭が4月3日に行われていて神楽が奉納される。高千穂神社夜神楽系の神楽である。
→高千穂から五ヶ瀬川を下るとこの延岡に辿り着く。
・約400百年前から行われ、平安時代の日向旧記では「えのひまつり、可愛火祭り」として紹介されている。(延喜式のことか?)
→火は後述する木花開耶姫のお産に関連する。
・可愛の語源は、日本書紀に筑紫日向可愛山之山陵とあり、「え」を「可愛」と表現している。
→古語大辞典によると、接頭語で愛すべき等の意味。用法:えおとこ、えおとめ
・可愛山の八合目に、「なでて=愛の手」という碑がある。木花開耶姫が息子を抱いて撫でた。
・北川瓊瓊杵尊陵墓参考地は、7世紀末頃の円墳で、この円墳に瓊瓊杵尊が葬られていない。
・鳥居龍藏博士が昭和の初期に調査して、青銅器、高坏等を発掘した。鏡は出ていない。
・可愛山全体が瓊瓊杵尊の陵墓であって、麓の円墳などは後から造られている。
・すぐそばの日豊本線は古墳を潰して線路を敷いている。木花開耶姫のお墓であるという人も居る。更にもう一つ古墳がそばにある。

木花開耶姫が三人を生んだもこの辺りか?
・古事記では、木花開耶姫がお産するとき、産屋が燃えだした頃に火照命(ほでり=海幸彦)、燃えさかっている頃に火須勢理命(ほすせり)、消えそう名頃に火遠理命(ほおり=山幸彦)が生まれています。つまり、三つ子を生んだのですね?

・この辺りの地名は「俵野(ひょうの)」と言いますが、江戸期以前は「火生野(ひうの)」と表記されていました。木花開耶姫が出産の際に国津神の子供では無い、瓊瓊杵のこどもであることを証明するために産屋に火をかけた事に由来しています。

・この延岡は高千穂から流れ出る五ヶ瀬川(ごかせがわ)が日向灘に注ぐ河口に拡がっています。
・なので、芦原中つ国から高千穂に下った(北部九州から南に下った)一行は、五ヶ瀬川沿いに日向灘に向かって、笠沙の地(延岡)に落ち着いたと考えるのは、妥当性がありそうです。

宮崎(日向)VS鹿児島(薩摩)
・明治7年に、明治政府は、瓊瓊杵尊の墓は薩摩の白尾國柱の説を元に鹿児島新田神社にあるとして、ここは陵墓で無くなりました。しかし、明治16年に宮内省の調査により北川陵墓が有力視され、明治28年に陵墓参考地になっています。
・明治10年の西南戦争のときに西郷隆盛は、政府軍の攻撃を避けるためこの場所に陣を張りましたが、双方ともこの場所が聖地であることを判っていたのでしょう。

可愛山陵(えのみささぎ)の意味
古事記、日本書紀では「可愛」で「え」と読ませます。漢字が入ってくる前から、このような呼び方をしていたのでしょう。前述の通り、愛すべきという意味で使われていますので、「愛すべき山陵」となり、瓊瓊杵尊、木花開耶姫への敬愛の情を表しているのでしょう。
可愛山の八合目に、木花開耶姫の碑があり「愛の手」と表記されていて「なでて」と読ませた人々の思いは今もつながっているようです。

3.薩摩川内市の新田神社
神亀山(しんきさん)という小山の上にあり、本殿への階段は急です。この神亀山が可愛山になります。もともとは新田神社の社殿は無く山そのものが神社であったようです。
725年に創建されたとする資料があります。
ここが明治7年に比定されたのは、薩摩の白尾國柱の説を元にしています。

新田の由来は川内の地に川内川から水を引いて新田(しんでん)を開拓した意味が込められています。ここのお祭りは、御田植え祭、早馬祭と、五穀豊穣を祈念するお祭りです。

御陵の形は方墳とされています。
木花開耶姫に関連するものはありませんでした。

白尾國柱の神代山稜考(抜粋)です。
瓊瓊杵、山幸彦、鵜葺草葺不合、三人分の記述を見つけました。
山幸彦のお墓は不採用だったようですが、そのそばに景行天皇が遠征したときのお宮があります。
天子山(景行天皇高屋行宮跡)

おまけ
ところで、山幸彦とウガヤの妃は姉妹ですので、親子関係では無く同世代の関係(仲間、兄妹等)なのでしょう。つまり、日向三代ではなく日向二代になってしまうのでしょうか。

 

 

 

 

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