山幸彦と海幸彦の物語は、天孫族と隼人族の争い

日向三代の御陵、遺跡図
宮崎説は青、薩摩説は赤で示します。
宮内庁は明治7年の薩摩案で決めた後、徐々に宮崎・日向説(従来説)に戻っているようです。

内容
1.海幸彦と山幸彦は血を分けた兄弟か?
2.山幸彦の御陵は高屋神社・高屋山稜(宮崎)
那岐(ナギ)の木つながりはあるか?
青島神社(宮崎)には山幸彦が祀られています
3.山幸彦は薩摩半島にある竹屋神社(鹿児島)にもお墓がある
ここの磐境(磐座)は支石墓
4.海幸彦を祀る全国で唯一の神社、潮嶽神社(うしおだけ)
5.宮内庁管理の高屋山上稜(未訪問)

1.海幸彦と山幸彦は血を分けた兄弟か?事跡、遺跡をめぐります
よく知られている山幸彦と海幸彦は日向第二代目です。
木花開耶姫が燃える産屋の中で生んだ三兄弟の内、一番目(海幸彦)と三番目(山幸彦)です。二番目(ホツセリ)は行方が知れません。
同時に生んだとあるので三つ子なのでしょうか。
あるいは、三人は兄弟ではなく同世代の人たちだったのかも知れません。
後で述べるように、海幸彦は天孫族と争った隼人の祖です。
山幸彦 – 火遠理命(記 ほおり)、
彦火火出見(紀 ひこほほでみ)
海幸彦 – 火照命(記 ほでり)、火闌降(紀 ほのすそり)

2.山幸彦の御陵は高屋神社・高屋山稜(宮崎)です
先ずは、高屋神社に山幸彦(火照命)が葬られているようです。「高屋山稜」です。
由緒にありますが、景行天皇の熊襲(隼人)征伐の時、この場所に宮を建てて前進基地としました。山幸彦が海幸彦(隼人族=熊襲)に打ち勝ったことにあやかりたかったのでしょう。
今はこんもりとした小山があるだけです。

※この宮崎市内以外にも大隅半島肝付町にもあり、景行天皇創建と伝えられています。
九州征伐のときにそばに行宮を建てて年間滞在しました。

那岐(ナギ)の木つながりはあるか?
高屋神社には郷土の木としてナギを植えています。ナギは熊野速玉大社、鹿島神宮の息栖神社などに植えてあり、遠く沖縄ともつながりがあります。宮崎県では、宮崎神宮の那岐の木並木とこの高屋神社にあります。
宮崎発祥のナギの木が黒潮に乗って、熊野灘に根付き、鹿島灘まで辿り着いたように思えます。
ナギは、海の凪、そして伊弉諾のナギに通じています。


そばの青島神社(宮崎)には山幸彦(火照命)が祀られています

日向灘に面する海岸にあるので、何度も津波被害にあっているはず。


3.薩摩半島にある竹屋神社(鹿児島)です

薩摩の白尾國柱の説により、南さつま市にある竹屋神社(たかやと読ませる)に山幸彦のお墓があります。ここは焼酎の神様としても有名のようです。

ここの磐境(磐座)は支石墓です
ここのお墓は支石墓(ドメルン)です。
支石墓は、前述のように薩摩半島笠沙の地に瓊瓊杵の宮としている宮の山遺跡にもあります。支石墓は半島南西部に多くあり、そこからやってきた人々が居たことの証左ではないでしょうか。
この竹屋神社は笠沙岬からも近く、同じ集団が拡がっていたと思われます。

 

4.海幸彦を祀る全国で唯一の神社、潮嶽神社(うしおだけ)に詣でました。
海幸彦は隼人の阿多君の始祖であり、その海幸彦(ホデリ)の末裔が、阿多・大隅に居住した隼人とされる。という記事もありました。
つまり、山幸彦と海幸彦の争いは、天孫族と隼人族の戦いをベースに作られた物語だろうと推測されます。九州南部が九州北部と戦った象徴が海幸彦と山幸彦です。

満潮に乗り磐船(頑丈な船)にてこの地に上陸したので、この地を潮嶽の里といい、ここを拠点に宮を建てて統治したともあります。
磐船は準構造船でしょうか?
ということは、神武が北上するときは準構造船が日向に既に存在していたのでしょうか?
因みに邇芸速日も磐船に乗って河内国に降り立ったとあります。

潮嶽神社は唯一海幸彦を祀る神社ですが、海岸から離れた場所にある小ぶりな神社です。
ヤマト王権の隼人族扱い方が見えるようですね。

5.宮内庁管理の高屋山上稜は霧島市溝辺町ですが、経由地、時間の問題で訪れませんでした。

 

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