ウガヤ(鵜葺草葺不合命)の宮殿とお墓です

日向三代の御陵、遺跡図
宮崎説は青、薩摩説は赤で示します。
宮内庁は明治7年の薩摩案で決めた後、徐々に宮崎・日向説(従来説)に戻っているようです。

内容
1.宮崎・日向説
砂土原聖地はウガヤの宮殿跡
鵜戸神宮に吾平山稜(参考地)があります
佐土原町古墳(第三十号)も候補
2.薩摩説
吾平山上陵

3.参考
吾平と姶良(なかなか読めない地名です・・・あいら)

白尾國柱の神代山稜考(抜粋)です。

1.宮崎・日向説
砂土原聖地(ウガヤの宮殿跡)
殆ど記録が無い鵜葺草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)の宮殿跡と言われている佐野原聖地を訪れました。
海岸から7-8Km陸側に入った標高97mの小高い丘の上に在ります。
ウガヤの4人の息子はここで生まれましたと案内にあります。

佐野原聖地
殆ど記録が無い鵜葺草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)の宮殿跡と言われている砂土原聖地を訪れました。海岸から7-8Km陸側に入った標高97mの小高い丘の上に在ります。ウガヤの4人の息子はここで生まれましたと案内にあります。「佐野原」の地名...

「佐野原」の地名は、神武天皇の幼名佐野尊(サノノミコト)に由来しているそうです。
ということは、個々の地名は、神武伝説が生まれた後に佐野原と名付けられた?(8世紀か)、又は神日本磐余彦が宮崎で活躍していた頃にこの地を佐野原と呼んだのか?(3世紀か)
いずれにしても、鵜葺草葺不合命はこの地名に関係していないようです。

 

鵜戸神宮に吾平山稜(参考地)があります。
昨年訪れましたが、その丘までは上りませんでした。今年は鵜戸神宮には行かなかったので、直接、吾平山稜を訪れることはしませんでした。
ここは、御陵の参考地として、明治19年に指定されています。薩摩側の吾平山稜は後述するようによく整備されていますが、鵜戸神宮にある御陵参考地はネットで見る限り、小ぶりな陵のようです。

佐土原町古墳(第三十号)
調べたら、もう一つ候補がありました。
ウガヤの宮殿跡の佐野原聖地から300m南に位置しています。
これが鵜葺草葺不合命のお墓ではないかという意見があります。

2.薩摩説
吾平山上陵(白尾國柱一押しで明治政府がきめました)

鵜葺草葺不合命が眠るのは、岩山の中にあります。(珍しいです)
ここを御陵としたのは、薩摩の白尾國柱が主張していた場所で、明治7年に薩摩が明治政府に承認させたと思われます。
明治7年から150年はは継続していまし、しっかり管理されているので、雰囲気は落ち着き、神聖な感じを醸し出しています。
でも、ここを見ただけでは、本物かどうかは判りません。宮内庁の看板だけが頼りです。

 

3.参考
・吾平と姶良(なかなか読めない地名です・・・あいら)

日向三代目、神武(神日本磐余彦)のお父さん、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)の御陵は吾平山稜といいます。
吾平山稜と書き、「あいらさんりょう」と呼びます。同じ発音で姶良(あいら)がありますが、錦江湾北側の町の名前で、更に桜島を含む姶良カルデラは錦江湾そのものです。
鹿児島には「あいら」が多いので、吾平と姶良の違いは何なのかなど気になるところです。

吾平は、「われ=あが」+「たいら」≑ 「あいら」・・・かな?
姶良は、つくりの「合=あい」+「良=らい」≑「あいら」でしょうか。
「あいら」の語源を調べましたが判りませんでした。


・白尾國柱の神代山稜考(抜粋)です。

瓊瓊杵、山幸彦、鵜葺草葺不合、三人分の記述を見つけました。
山幸彦のお墓は不採用だったようですが、そのそばに景行天皇が遠征したときのお宮があります。
天子山(景行天皇高屋行宮跡)