笠狭・笠沙はどこでしょうか?
瓊瓊杵が木花開耶姫と出会い結ばれた場所は笠沙(笠狭)の地であると古事記、日本書紀の両方に述べられています。
では、どこにあるのでしょうか?
二つの場所に行ってみました。
内容
1.笠狭の岬とは
2.延岡の笠狭山(現愛宕山展望台)に上る
3.薩摩半島の笠狭岬を探る
・瓊瓊杵は薩摩半島西岸に上陸した
・この岬に上陸したとされる鍵は支石墓
・薩摩は支石墓群は瓊瓊杵の宮と主張
・海岸に面した笠沙の宮跡(宮の山遺跡)
・南さつま市舞敷野の笠狭宮跡
4.様々な人々がやってきた
・鑑真和上も上陸した
・瓊瓊杵を祀る笠狭の岬の野間神社は、中国福建省甫田の娘馬(ろうま)女神も祀る。
・串間市の王壁
1.笠狭の岬とは
古事記では笠沙の岬(御前)で韓国に向かい、朝日を直接浴び、夕陽を浴びる場所とあります。
・・・古事記が編纂されていた頃に、韓国(からくに)はどこなのかが問題。
現在の朝鮮半島に向かう場所と言っても、北に向かっているとしか・・・
・・・判りやすいのは、東と西に開けた高台のような所でしょう。
日本書紀では吾田国の長田の笠狭の崎とされています。
・・・吾田(あがた)は日南市にその地名がありますが、国の大きさでありません。
・・・直轄地の県・吾田という解釈をすると、中つ国の直轄地という考えもあります。
つまり、北部九州に近い日向エリアが候補となり、ここ延岡がその地になります。
・・・因みに長田は全国調べても、現在、九州にはありません。
2.延岡の笠狭山(現愛宕山展望台)に上りました
(江戸時代に笠狭山から愛宕山に改称されています)
こちらの動画をご覧ください。
天孫降臨の道筋に沿って、高千穂から下ってきた五ヶ瀬川と海岸に囲まれた高台です。
日向灘に面しほぼ全周に渡って見晴らしが良いです。
舞台は揃っており、説得性がありますね。
恋人の聖地として有名になっています。
- 笠狭の岬は見晴らし抜群
3.薩摩半島の笠狭岬を探る
・瓊瓊杵は薩摩半島西岸に上陸した
明治政府は上記の日向三代配置図の赤色印を日向三代の事跡として比定しています。
芦原中つ国から下って、この笠沙の岬に上陸したと解釈されています。
更に、この岬に笠沙の宮があり、木花開耶姫ともここで出会ったとあります。
その笠沙の岬に立って東シナ海を望む風景をご覧ください。
西に開けた眺望は抜群です。
・この岬に上陸したと判断した鍵は支石墓
鍵は、笠沙の山の上にある、宮の山遺跡(笠沙の宮跡)の支石墓群です。この地に紀元前より人々が住んでいた証です。
薩摩半島の瓊瓊杵の宮、山幸彦のお墓(竹屋神社の磐座)は支石墓です。
大陸では大陸遼東半島ではBC1000年以上前から、半島ではBC800年以降に見られ南西部に多く見られる墓です。
ここにある支石墓を造った人々は紀元前にやってきていたと推察されます。
大陸の燕が消滅したことなどと合わせて考えると、紀元前5-3世紀頃より人々がやってきたと想定します。この笠沙に北部九州を経由してきたのか、黄海と東シナ海を渡ってやってきたのでしょうか?
瓊瓊杵がこの笠沙の地にやってきたという神話の元には、紀元前より大陸又は半島からやってきた人々がいた。
そして、この地に支石墓(ドメルン)を作って暮らしていた。という実態があったのでしょう。
しかし、佐賀大学の土木学会論文、「古代アジアの墳墓構築における地中対策と変遷」の中で、支石墓に触れています。「何故、支石墓は南九州全域や本州に伝播しなかったのか?」
支石墓は南九州に留まったままでした。
・薩摩は支石墓群の場所と合わせ野間神社を瓊瓊杵の宮と主張
瓊瓊杵をAD3世紀中盤から後半の人と考えていますので、この遺跡群はそれより古く合いません。
但し、紀元前より渡来してきた人々がいたのは確実で、その事実に薩摩の白尾國柱が瓊瓊杵の話を重ねて、ここが笠沙の岬だと主張し、明治政府が認めたと推測します。
- この小山の上に宮の山遺跡があります
- ここから坂を上ると宮の山遺跡
- 笠沙の宮跡 ドメルン
- 笠沙の宮跡の説明
・南さつま市舞敷野の「笠狭の宮」です。こちらの方がよく知られています。
日本発祥の地という碑を建てた人々は本当に信じていたのでしょうか?
4.様々な人々がやってきた
・鑑真和上も上陸した
鑑真和上(688~763年)はこの近く(坊津町秋目)に上陸していました。
渡海を試みるところ5回、6回目にして渡海を果たしました。
揚州を出航し沖縄を経由して、753年12月20日に薩摩国の秋目(秋妻屋浦/鹿児島県南さつま市坊津町秋目)に辿り着いたのです。
以降、5年を東大寺で、残りの5年を唐招提寺で過ごしました。
・瓊瓊杵を祀る笠狭の岬の野間神社は、中国福建省甫田の娘馬(ろうま)女神も祀る。
野間岳物語(抜粋)が笠沙美術館に置いてありコピーさせていただきました。
柳元人成さんが作成された「神話の里」野間岳の野間神社と支石墓群(ドメルン)のある宮の山遺跡を中心にしています。
野間岳は笠沙岳と呼ばれていたが、中国福建省甫田の娘馬(ろうま)女神を個々に祀ってから、娘馬岳となり、のちに野間岳と呼ばれるようになった。とあります。
この薩摩半島西岸は福建省と交流があったようです。
・串間の玉壁
そして、串間市で発見された王壁です。この伝搬ルートも大いに気になるところです。
道の駅くしまに展示していた王壁と明刀銭のパネルと展示会写真です。
- 串間で発見された大陸製王壁
- 展示会の写真です。
というように、大陸華南からこの薩摩半島までは様々な人々が辿っていたのは間違いないでしょう。
渡来してきた人々は東(串間方向)に向かい、熊本方面にも流れていったと思われます。
現地でお目に掛かった方もその用の仰っていました。
南から北へ拡がった人々の足跡は、竹屋神社の支石墓、熊本地方に拡がる積石塚(支石墓の後継の形)が暗示しています。
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