神武東征の九州にまつわる事跡を、2022、2023年秋に巡りました。
神武(神日本磐余彦)が日向を出発して、いくつかの地に寄港しながら遠賀川河口までやってきたと、古事記、日本書紀にはあります。
その後、安芸、吉備を経由して近畿に入ります。
この物語は完全な創作なのでしょうか?
あるいは、下地となるような出来事があったのか?それはどのようなものだったのでしょうか?
興味は尽きません。
とにかく、神武が生まれ育ったところ、育ち政務を執り行ったところに行ってみました。
下の図の赤丸部分です。
そして、東に向かって船出して九州東部沿岸で寄ったところを追ってみました。(次号)
内容
1.神武が生まれて大人15才になるまで
1)薩摩説(明治政府説)
・生まれたのは皇子原(皇宮神社)
・15才まで育った狭野神社
2)宮崎(日向)説(従来説)
・生まれ育ったのは佐野原聖地(佐野原神社)
2.15才大人になってから(薩摩、宮崎とも同じ)
・皇宮神社・皇宮舎
・宮崎神宮
3.埋蔵文化財センター(火山灰地層展示)・・・おまけ
1.神武が生まれて大人になるまで
1)薩摩説(明治政府説)
・生まれたのは皇子原(皇宮神社)
ここは高原町古墳の一角にあり、皇子原の丘陵上にある円墳が6基あります。高原町の調査では古墳時代(4世紀以降)の古墳とされており、神武は3世紀生まれなので時代的合致は厳しい。
あとづけ遺跡の可能性があります。
・15才まで育った狭野神社
皇宮原から約1km下ったところ、緩やかな斜面に建つ神社です。
古事記では、神武の幼名は狭野(佐野)又は彦火火出見(ひこほほでみ)にちなむ神社名です。
生まれた場所(皇宮原)があとづけなら、育ったと云われるこの神社もあとづけでしょう。
- 並木が整備されている
- 傾斜地にある 下は溶岩だろう
- 拝殿
- 再三霧島噴火に遭っている
2)宮崎(日向)説(従来説)
・生まれ育ったのは佐野原聖地(佐野原神社)
鵜葺草葺不合の宮殿です。(神武の幼名佐野皇子に由来しています)
海岸から7-8Km陸側に入った標高97mの小高い丘の上に在ります。4人の息子はここで生まれましたと案内にあります。
佐野原聖地の名前も、佐野皇子(神武)がここで生まれたからのようです。
2.15才大人になってから(薩摩、宮崎とも同じ)
・皇宮神社・皇宮舎
15才になって、宮崎神宮に近い小高い丘にある皇宮屋(こぐや)に移り政務を執り行いました。
古事記に曰く「高千穂の宮」との説もありますが、現在は宮崎神宮の摂社(皇宮神社)とされています。
- 皇宮神社(皇宮舎)
- 皇宮神社(皇宮舎)
- 皇軍発祥の碑 神武は武闘派の代名詞
・宮崎神宮
神武の孫の建磐龍命が創建したとあります。崇神の時代に造られ、景行天皇の九州征伐の頃に増営されたと考えるのが良さそうです。さらに日向国造の祖、老男命(おいおのみこと)が祀るようになったとあります。
- 敷地内の埋蔵文化財センターを訪れました
3.埋蔵文化財センター(おまけ)
火山が多いこの地方ならではの展示です。
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