前号では、神武が生まれ育ったところを訪ねました。
ここでは、神武が美々津の浜を船出してから宇佐に立ち寄るところまでを巡り、現地で東遷伝説の虚実を確かめます。
内容
1.何故、船で日向灘を北上したのでしょうか?
2.経由地を訪ねて少し考えました
・船出したのは美々津浜
・美々津浜の町並み
・おきよ丸大阪へ行く
・水補給したのは、大入島の「神の井」
・豊予水道は速吸門(はやすいのと)と呼ばれ海流は速い
・宇佐神宮(一柱騰宮)
3.日向灘を北上した東征伝説の虚実
・海路VS陸路
・海を渡ることに意味がありました
・海路を北上する意味
・何処で誰が船を造ったのか?
・船材の楠はある
4.狙いは、現人神信仰を広めたい
・南の勢力と戦っていたのは事実
・中央から地方に「下った」のを、天から地上に「下った」とした
・日向はヤマト王権の支配地であった
・持統から軽皇子への譲位(孫への譲位)を正当化
・神武東征北上する船旅は景行などの事跡を下地に創作されました
・九州の弥生後期から古墳時代の勢力図
5.当時の船(おまけ)
・準構造船とは(おまけ2)
・ナギの木は語る(おまけ3)
・ナギの巨木の分布図
1.何故、船で日向灘を北上したのでしょうか?
当時の海上交通には大変危険が伴います。
波が穏やかな瀬戸内海を船で行き来するのと違い外洋は危険です。
何故、海を北上したのでしょうか?
当時の船はこちら
・船出したのは美々津浜
美々津浜は耳川の河口に拡がります。
川沿いにある立盤神社の境内には、海軍発祥の地という碑が建っています。
立磐神社の様子 帝国海軍発祥の碑
・美々津浜の町並み
きれいな町で、廻船問屋が何軒か有り、高鍋の秋月家は大阪との交易で栄えていました。
- 美々津港
- 美々津の街
- 廻船問屋
- 美々津浜
・おきよ丸大阪へ行く
皇紀2600年記念行事として、神武が乗ったであろう船(準構造船)をおきよ丸として建造し、美々津から大阪まで櫓をこぎ風を受けて進みました。
「おきよ」は下の写真文にあるように、神武が夜中に急に出発することになったので、町中の人々を「おきよ おきよ」と触れ回って起こしたことによるようです。
- 準構造船 乗員80名 24丁櫓
- S15.4.18美々津出港~4.29大阪着
- 当時の新聞記事
・水補給したのは、大入島の「神の井」
「神の井」は古代より給水するには良い井戸です。
海岸から数メートルしか離れていないところにあります。
少し舐めてみたら塩っぱくありません。
神武以前より木船で行き交う人々が給水に立ち寄っていたと容易に想像できます。
ここにも、海軍大将が訪れた記念碑が建っています。よほど、神武東征にあやかりたかったのでしょうか?
大入島には佐伯港からフェリー約10分で渡ります。
・豊予水道は速吸門(はやすいのと)と呼ばれ海流は速い
この海峡は豊予水道ですが、潮の流れは速く船の難所として有名です。
この東側は四国の佐田半島ですので、四国との交流もあったでしょう
この急流を鎮めるため、海女の黒砂(いさご)、真砂(まさご)姉妹が海底から大蛸が護っていた神剣を取り上げて神武に奉納したとあります。
蛸が剣を守るというのは何に例えたのでしょうか?刀の下げ緒に蛸足下緒(たこ(の)あしさげお)と言うものがあるそうです。この故事から発展した命名なのかも知れません。
・速吸門で急流を鎮めた、早吸日女神社(はやすいひめじんじゃ)で建国祈願
神武は奉納された剣をご神体として、建国を請願したのが始まりであるとされています。
急流は自らの力で乗り切り、その力を感じて建国の意思を新たにしたということでしょうか。
- この神社では蛸は食べない
・宇佐神宮(一柱騰宮)
神武一行が豊の国の宇沙に着いたとき、地元の豪族(宇佐の国造)菟狭津彦(うさつひこ)、菟狭津姫(うさつひめ)が饗応しました。その場所がここ宇佐神宮の地にあると言われています。一柱騰宮(あしひとつ あがりのみや)をわざわざ造っています。
宇佐神宮の祭神は比売大神(台与)、八幡神(応神天皇)、神功皇后です。
記紀編纂の頃には、既に天孫族の拠り所となっていた神社ですので、神武は必ず寄っていく話が必要だったのでしょう。
「宇佐」での地元豪族から歓待を受けたのは、天孫族の威光の前に地元神が従ったという逸話に仕立てました。場所は、宇佐神宮そばの一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)だと伝わります。
菟狭津彦、菟狭津姫は、西都原の男狭穂塚(妃の父親)、女狭穂塚(仁徳の妃)に対応しているようにも思えます。
・海路VS陸路
海路を選び日向灘を北上しましたが、陸地を通るには何か問題があったのでしょうか?
海岸沿いの道は特段険しくなく、又、通るのを阻む敵勢力がいたという話は伝わっていません。
内陸側では邪馬台国は狗奴国と戦っていたという可能性が有るので、東海岸沿いの陸路を通る方が易しかったと思います。
景行天皇の九州征伐ルートは、神武の日向灘北上ルートを南下しているようにも見えます。
記紀作成の時に、景行ルートを参考にした可能性もあるでしょうか?
・海を渡ることに意味がありました
景行の息子大和尊(倭建)が熊襲をだまし討ちしたあと、海路で倭に帰ります。
神武の日向灘北上物語はこの話を下地に創られたのではないでしょうか。
又、大和尊(倭建)は帰る途中吉備に寄り、穴海地元神と戦いの海路を開拓しています。この穴海は神武が3年間滞在した高島の宮の場所です。
若しくは、大和尊(倭建)の話が神武東征を下地にしているとしても、海路を拓く、海を制することに現人神の権威を象徴する意味があります。
・海路を北上する意味
古事記、日本書紀で日向灘を船で北上した意味を次のように考えます。
①海幸彦・山幸彦の話では、海神(わたつみ)を登場させるなど、天孫族は海も制していた事を示している。
②豊予水道の速吸門で急流を乗り切った力強さなどを表したかったのかも知れません。
③海の民が沖縄等南方から日向灘へやってきていた、更に熊野灘から鹿島灘へ続く海の道を切り拓いていたように、北上する海道を切り拓きました。
・何処で誰が船を造ったのか?
日向ではアウトリガーカヌーのような小さな船は造れていたと思われます。
準構造船を造るには他から技術者を呼んで造る必要があります。
北部九州、玄界灘沿岸の公人たちを連れてきたのでしょうか?
又は、対立する隼人に技術があり、そこから工人たちを集めたのでしょうか?
・船材の楠はある
準構造船の船造りには楠が適しているといいますが、宮崎県には多くの楠の巨木が今でもあります。となると、日向では船を造っていたという可能性が高くなりますね。
このことも神武が船で北上したという神話創成のベースになるのでしょう。
因みに薩摩半島には楠の大木が密生している「千本楠(せんぼんくす)」が日置市の大汝牟遅神社に在ります。
※飫肥杉(おびすぎ)飫肥地方で約400年前から植林され、木造船の材料(弁甲材)として利用されてきたようです。
4.狙いは、現人神信仰を広めたい
記紀では神武以前から日向灘を行き交い、更には熊野灘から鹿島灘にまで向かっていた人々が居たこと、速い海流、嵐などの自然の猛威に難儀していた事実を織りまぜています。
・南の勢力と戦っていたのは事実
邪馬台国が南側の国(隼人・熊襲)と戦っていたというは本当のことだったでしょう。
(邪馬台国が南に攻め込んだのか、南の国が攻め上がってきてたのかは別にして)
日向伝説にある海幸彦・山幸彦の戦いは薩摩・熊襲との戦いを表しているようです。
4世紀に景行天皇が6年以上かけて九州征伐に出掛け、その息子の大和尊が熊襲を討ち取ったと日本書紀あります。実話に近いと思いますが、これを海幸彦と山幸彦の戦いに神話化していると考えます。
・中央から地方に「下った」のを、天から地上に「下った」とした
「邪馬台国勢力が北から南に下って戦った事」を、「瓊瓊杵が天の原から降臨した。」
として、天孫神話を創りました。
現在でも鉄道、道路で上り、下りといいますが、中央(東京)に向かうのは上り、離れていくのは下りという意味で使います。その平面上の動きを上下(天と地)の表現に変えて使いました。
そして、天孫族の初代である瓊瓊杵の孫の神武が、「現人神」としてヤマトを統一しました。
・日向はヤマト王権の支配地であった
宮崎県には奈良県の古墳との類似性が高い多くの古墳群があります。
西都原古墳群、生目古墳群、新田原古墳群、持田古墳群など、3000以上の古墳が集中しています。
古墳王国と言っても良いでしょう。
西都原古墳群の女狭穂塚、男狭穂塚は5世紀の古墳で、仁徳天皇の妃とその父であるという説が有力です。又、推古天皇は蘇我馬子に向かって、「馬なら日向がよい」と言うほど、近畿とつながりが強い地域です。
・持統から軽皇子への譲位(孫への譲位)を正当化
更に、持統上皇(さらら)が孫の軽皇子に皇位を譲る根拠となるように、この天孫伝説を創作し利用したと思われます。
なので、神武東征の九州北上編の多くは、当時の人々の生活と景行大王たちの事跡を下地に創作されたのではないかと考えます。
もしかすると、景行、大和尊の事跡も別の人々の歴史をベースに作られているのかとも・・・
言い出したら切りがないですが、北と南が争っていた、日向はヤマト王権の支配地であった事がポイントとなるでしょう。
その後の北部九州(岡湊辺り)から瀬戸内海を東進した際に吉備に滞在したことも大和尊(倭建)の話を元にしている可能性が有ります。
しかし、一度は長髄彦に破れたが奈良盆地を制覇したのは、実際にあった出来事を元にしているのではないでしょうか。(でも、熊野回りは創作でしょう)
- 海の道を拓いたのはこれ!
- 帆を再現してほしい
- 正にこのような船で東進した
- 徐福の船と言われます
- 船用木材は楠
・ナギの木は語る(おまけ3)
「神武東征の実相」で解き明かしたように、庭木図鑑 植木ペディアのナギの項目に以下の記載があります。
・庭木としては主に静岡以西の暖地に植栽される。ナギ=凪(穏やかな海)と解し、海運の安全や受験の合格を祈願する御神木として神社に植えられることも。
ナギの巨木の分布です
熊野速玉大社と鹿島神宮息栖神社の梛の木です
- 熊野速玉大社の梛の大木
- 鹿島息栖神社の梛の木
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