内容
1.串間の玉壁
2.薩摩半島の支石墓(ドメルン)
3.装飾古墳博物館を訪問
石室内部のレプリカ、文様の意味、面従腹背を表す?
4.板石積石棺墓は九州南西部に集中している
支石墓・板石積石棺墓・装飾古墳の分布図
5.支石墓が大陸江南と半島から伝わった(稲作もみかんも)
6.見えてきたのは
・・九州の西半分を、ヤマト王権は完全に支配できなかった
7.北部と南部の戦いは天孫神話と神武東征の下地になった
薩摩半島の笠狭の岬から北上を開始して、途中天草に寄りながら熊本に戻りました。
1.串間に大陸の玉壁が伝えられていた
「道の駅くしま」に次の展示がありました。
薩摩半島に大陸から人々がやって来ていましたが、紀元前2世紀には更に東の串間付近まで進出していた証ではないでしょうか。それも、かなり高位の人間だったのです。
道の駅くしまに展示していた玉壁と明刀銭のパネルです(拡大して見てください)
- 串間で発見された大陸製王壁
- 展示会の写真です。
2.薩摩半島に支石墓(ドメルン)があった
笠狭岬の高台にある瓊瓊杵の宮が支石墓群(ドメルン)だと知り、竹屋(たかや)神社の山幸彦のお墓も支石墓とわかりました。
支石墓は大陸遼東半島、浙江省に春秋時代頃に発生し、その後半島に伝わり南西部を中心に3万基以上在ります。今は世界遺産となっています。
その対岸の北部九州にもありますが、熊本など中央部と東部にはなく、薩摩半島に数カ所確認できます。
3.装飾古墳博物館を訪問
大変よく出来た石室内部のレプリカです
- 岩戸山古墳 人石
- チブサン古墳内部
- 実際のチブサン古墳
装飾文様とその意味です
装飾古墳はヤマト王権への面従腹背の姿勢を表す?
熊本の北の装飾古墳の内部はカラフルな装飾と二人並ぶ埋葬方法など、磐井の乱で有名な岩戸山古墳の回りは石人石馬で飾られています。
外見は前方後円墳ですが、石室の中は別世界が広がります。
古墳時代のヤマト王権に対しては面従腹背の姿勢が見て取れるようです。
4.板石積石棺墓は九州南西部に集中している
装飾古墳博物館では丁度板石積石棺墓の特別展示がありましたが、熊本地方に特に多いこの石棺墓はヤマト王権とは一線を画しています。
分布は、九州に限られているようで、宮崎・鹿児島・熊本・長崎諸県で300基を越え、図にもあるように、鹿児島県川内川上流域に集中しています。
5.支石墓が大陸江南と半島から伝わった(稲作もみかんも)
大陸からと半島からの両方のルートで人々が薩摩半島までやってきたと思われます。
紀元前5世紀頃、稲作は大陸呉から伝わってきました。支石墓も一緒にやって来たのでしょう。
下って4世紀中葉に垂仁天皇が田道間守を大陸江南・東晋の地に使わしています。それを日本書紀では、常世の国まで神仙(ひじり)の隠れた場所で普通の人は行けない場所と表現しています。
温州みかんは東晋(317-420)時代に、江南温州から伝わってきたと考えられます。
三角縁神獣鏡の元となる神獣鏡は江南など長江流域で出土されています。
神仙思想、稲作、新たな墓制が九州北部と西岸に伝わりました。
温州みかんも大陸温州から鹿児島県長島に伝わり、日本の原産地となっています。
九州内部での争い、倭国大乱、邪馬台国VS狗奴国、ヤマト王権VS熊襲・隼人、磐井の乱、青南戦争などは、半島からと江南からの二つの文化流入ルートの違いが元になっているかも知れません。
時代は戻りますが、徐福は伝説なのか、実際なのかは別にして、やって来たとしたら沖縄経由で南九州に辿り着いたと思われます。
鑑真和上が苦難の末沖縄を経由して薩摩半島に来たのは事実ですので、そのルートは古来から伝わり、人々が交流していたのでしょう。
6.みえてきたのは
九州の西半分を、ヤマト王権は完全に支配できなかった
日向三代の内容と合わせると、邪馬台国=ヤマト王権は九州の東半分は支配下に置いていたようですが、西半分は邪馬台国時代には南の狗奴国と争い、日向に南下して(下って)隼人(海幸彦)と争っていました。
しかし、西半分はヤマト王権になっても、磐井の乱にあるように対立が続き、前方後円墳を広めていても内部は装飾するなど、面従腹背状態だったと言えるでしょう。
弥生後期から4-5世紀の古墳時代までの九州の勢力を概略まとめてみました。
如何でしょうか?
7.北部と南部の戦いは天孫神話と神武東征の下地になった
3世紀から5世紀にかけて、九州は北部と南部の対立、戦いが実際にありました。
天孫降臨伝説は、この邪馬台国最後期の南下政策を元に仕立てられています。
古事記、日本書紀にある日向三代神話と現人神の誕生です。
神武が東遷した後も、ヤマト王権は邪馬台国の野望を持ち続けて、神武に続く景行などの大王たちにその野望を託して熊襲(隼人)に戦いを挑み、ついに屈服させました。大和尊の登場です。
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