神武は吉備でも交渉した 吉備高嶋編

神武が最後に立ち寄ったのは吉備
・吉備(岡山)の高島(高嶋)に、8年間(記)、3年間(紀)
古事記は編年体で書かれていませんので、いつからいつまで滞在したのかは判りませんが、滞在期間は表記しています。春秋2倍暦を用いていたとしても、ずいぶんと長く吉備に滞在したものです。
強国である吉備との関係はどうだったのでしょうか?

吉備に滞在したわけは?
古事記・日本書紀に共通しているのは吉備に滞在していたことです。神武の事跡は吉備国とは海峡を隔てた処にある島(高島)にあります。
古事記では、高嶋宮(たかしまのみや)に8年間滞在し、日本書紀では、翌年3月6日には岡山(吉備国)に入り、行き宮(高島)を造って3年間軍勢を整えたとあります。

つまり、吉備国内に入り込んだのではなく、海を隔てた高嶋(島)から強国だった吉備と何らかの戦いがあったのか、交渉が行われたのでしょう。
吉備の重要な拠点だった楯築遺跡は神武より時代が前ですが、海に面していました。
その辺りに吉備勢力の本拠があったとして、神武は船で吉備に渡り交渉、戦いなどをしていたと想像します。
それを、日本書紀では軍勢を整えたと表現したのでしょう。

吉備勢は既に奈良盆地に進出していましたので、彼らと協力関係を築き、自らの奈良盆地侵攻を容易くしたのではないでしょうか?
神武は出雲勢と同様に吉備勢と奈良盆地で戦っていません。

神武は吉備と対峙して交渉を行っていた

天孫鏡族は吉備祭祀に影響を受けた

吉備との協力関係を築くと共に、吉備の祭祀形式にも影響を受けたのでしょう。
図にあるように、吉備の楯築遺跡にあるような形式に、北部九州の象徴である「鏡」を加えた、大王型前方後円墳に変化します。


高島は小島

高嶋は小さな島で渡し船で渡るしかありません。
この小さな島に何年間も滞在したのは陸地の吉備にはなかな上陸できなかったのでしょうか?
高島があるのは、児嶋湾の中で、「小島」と関係があるのでしょうか?
高島は小さな島ですので、実際の行き宮は宮浦に在り、その後背地である、高山などに居留してたと思われます。
そこは吉備、瀬戸内海が見渡せる絶好の場所です。

宮浦遙拝所

 

 

 

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