巡る旅Ⅱ 吉野・飛鳥編

吉野山と飛鳥の地を巡りました

2018年11月の終わりに、奈良、京都の紅葉を兼ねて出かけました。

初めての吉野です。
朝一番で、吉野山の奥、金峯山神社にお参りして、その奥にある、念願の

「西行庵」跡、芭蕉が歌った「苔清水」を回りました。
勝手神社で踊りを見て、吉野歴史資料館の館長さんのお話吉野のお話を聞き、
蔵王堂で修験道の一端に触れました。

大和三山の香久山、耳成山に登り、藤原京跡を眺め、畝傍山はあきらめて、
明日香を後にしました。

金峯神社 西行庵 苔清水

・朝一番で、吉野山の細い道を上り、最奥の奥千本駐車場(金峯神社脇)に駐める。
・社務所が開くと同時に御朱印を頂く。(家内だけ) 祭神は金山彦神
・神社から奥に、坂を上り下ると、西行庵

 今まで訪れた、西行ゆかりの地は、奥州、二見ヶ浦、讃岐、高野山これでほぼ完結。
・昨年の台風で、苔清水の回りは倒木で見る影もない。

金峯山寺 蔵王堂 吉野山の中心 修験道の本山

・二人のお坊さん(修験者?)が護摩を焚き、熱心に般若心経をあげていた。
・須弥壇の前に個別の仕切りが有り、参詣者がお参りが出来るようになっていた。
一心不乱に護摩を焚く姿に、真剣な祈りの場、力強さを感じた。

・金峰山修験本宗の本山。本尊は蔵王権現。
・伝説的な山林修行者である役行者=役小角(7世紀)が開祖。
・金峯の意味は、吉野山から大峰山にかけて黄金の地下鉱脈あった事による。
 金峯山は黄金浄土である。
・この山を南に越えていくと、真言密教の高野山を経て、熊野三山に至る。
 空海も、吉野から入って、蔵王堂を経て高野山に入ったのだろう。
・南朝の中心地であり、1336年、後醍醐天皇が蔵王堂敷地内の一角を皇居とした。

吉水寺 吉野の花見 義経、後醍醐の住まい

・吉野千本桜の舞台、でも、今日は紅葉の堪能する。 秀吉の花見本陣だそうだ。

・縁の品々が展示されていたが、説明文なく近畿式銅鐸が一つ有り。
・その日は紅葉がきれいに見えた。
・元々、金峯山寺の僧坊の一つだが、明治政府の悪行の一つ、神仏分離で神社となる。
・源義経が弁慶らと身を隠したところで、後醍醐天皇の行宮(住まい)でもあった。

勝手神社 天武は芸能通

・丁度、「吉野古典芸能を楽しむ会」が開かれていた。 この神社の芸能にまつわる
 歴史講演、人形浄瑠璃などが披露されていた。・・・全部見られず、残念。
・吉野歴史資料館の館長さんが神社紹介した。判りやすく興味深い。
吉野は古典芸能の聖地。義経千本桜、二人静など、文楽、歌舞伎、能の舞台である。


・この神社は、大変古いらしく、孝安天皇6年(323年頃)に創建されたようだ。
・668年大海人皇子が琴を奏で、天女五度袖を振りながら舞った。
(宮中五節舞の起源)

静御前が捕らえられ、この場所で舞をさせられたと伝えられている。「二人静」の元。
2002年に焼失。当日は、再建寄付を募っていたので、些少ながら納めた。

奈良万葉文化会館

・玄関前で、「ナモデ踊り」雨乞い踊り、推古33年(625年)の記録
が披露されていた。

・古代、現代発音で歌を聴かせるコーナー有り。 違いがわかる?男になる。
あしひきの山のしづくに妹(いも)待つとわが立ち濡れし山のしづくに
大津皇子が恋人の石川郎女に贈った恋歌を選んだ理由は何か?
・飛鳥の工房跡の上に建っている。(金銀鉄銅の様々な製品、ガラス・宝玉類)

吉野川の流れ  ここの地名は宮滝
吉野歴史資料館 宮滝遺跡の発掘の拠点

・一目見て、宮滝は、2011年に行った高千穂峡に似ていると感じた!

・両岸が切り立った場所があり、流れも急。宮滝は古語の「たぎつ瀬」に由来とのこと。
・水の源である“青根が峯”(金峯山寺方面)を真南に仰ぎ見る地である。
・青根が峰は高千穂の峰、宮滝は高千穂峡のように思えてきた。
・宮滝(吉野宮跡)の遺跡を発掘している。
・縄文・弥生時代から、斉明→持統→聖武時各天皇の宮跡が重なっている。
・吉野宮は、青根が峰を真南に見えるように、意識して建造されているとのこと。
・小ぶりだが、展示は判りやすい。

天香具山 藤原京跡 甘樫丘 耳成山
(水の有り無しが古代史に関わっている。)

・麓の小さな駐車場に駐めて5分も歩くと、舒明天皇が歌った場所に登り立った!
大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば
国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は
・歌った場所は、10メートル程度上った山裾で高くない。でも当時はよく見えた筈。
今は、木々に邪魔され全周見渡せないが、眼下には藤原京跡が広がる。
 海原は何処にあるのか? 古代は湖が見えたのだろう。

・山の頂上迄は、更に10分ほど登る。
伊弉諾、伊弉冉、天香具山、天岩戸神社が山頂から山裾周辺に点在する。
・持統天皇も歌った  春過ぎて 夏来るらし 白栲の 衣干したり 天の香具山
白栲を大和尊の白鷺に見立て、舒明など祖先が藤原京を見守ってくれている。としたい

【藤原京】
・大和三山に囲まれた地 天武の遺志を持統が実現させた。 694年~710年
・東は香具山、北は耳成山、西は畝傍山に囲まれ、南には吉野の地に造営したが、
 たった、16年間で消滅。
・16年間で消滅したのは、水不足により赤痢等が蔓延したのが原因。(資料館説明員)
・今の飛鳥川は小川のように細っており、とても数千人以上の水は供給できないと思う。
【甘樫丘】
・甘樫丘から飛鳥を一望できた。
 蘇我氏が「飛鳥は俺たちの物だ」と思わせるような眺め。

・北側の眺めも良い。香具山、耳成山、畝傍山、その後の藤原京方面。
【耳成山】
・巾2メートル位の小道をぐるぐると回りながら登る。木の間から香具山を発見。
・明治41年、天皇は馬車で上がり軍隊行進を閲兵した。その時の道が今の登山ルート

コメント

タイトルとURLをコピーしました