はじめに
持統の生涯を方丈号で辿る ーさららの懐いと想いー
古代を巡るキャンピングカー旅を始めて8年目になります。
最初の長旅で、まだ行ったことのない熊野を目指したところ、海岸沿いに「花の窟」という聞いたことのない神社を見つけました。「花」に関係したところかな程度に思っていましたが、そこは、海岸にせり出す岩をご神体とする、祭神が伊邪那美の神社でした。
伊邪那美は国生み神という事は知っていましたが、前日に訪れた伊勢神宮、その日の午後に行く熊野との関係はどうなっているのかと興味が湧きました。
その後調べてみると、伊邪那美のお墓は日本書紀では熊野有馬の地、古事記では日本海側の比婆山と、違っていました。その訳は?と思っても教科書はありません。
これがきっかけとなり古代への好奇心を満足させようと「古代を巡る旅」を始めました。同時に全国の絶景を楽しみ、暖かい温泉に浸かりつつ、美味しい食事でお腹も満足させています。3年前までは愛犬と一緒でした。
翌年、吉野川沿いの宮滝遺跡を訪れたところ、この風景は以前に訪れた天孫降臨の地、高千穂峡とよく似ています。調べると標高、平均気温、年間降水量もほぼ同じです。
そして、吉野は、神武が熊野を越えて降り立ったところです。
吉野山の金剛蔵王大権現像は言い表せない迫力ですが、吉野川流域に根付く自然信仰と外来の神仙思想、それに仏教がどう被さったのか興味は膨らみます。
熊野有馬、吉野宮滝に共通するのは持統天皇で、夫天武とともに現人神を頂点とする国造りを行いました。天皇制を永続させる仕組みを創り、父子相続の原則で社会を安定させるなど現代に通じています。聡明な少女は賢い妻で一途な母となり、夫の死後は天皇を引き継いで、孫の将来を案じる祖母上皇となります。興味深い女性の一生です。
熊野から始まり、飛鳥、河内、吉野、伊勢、九州各地、出雲などを巡り、持統(さらら)の生涯を辿る一文をまとめてみました。
昨年アップした「”さらら”の懐いと思い」の題名を変え、辿ったところの写真、映像などを加えました。YouTube、Webリンクも埋め込みました。
ご覧ください。
2024年秋 西忠行(岸本忠也)
序章
この図は、江戸時代の「錦百人一首あつま織」に描かれた持統天皇です。
なんと、男の衣裳をまとっています。江戸の人々は女性の持統天皇が女性であるのを知っていたのに、男装で描いたのは、男勝りの天皇であったと思っていたのでしょうか?
この本は大変有名で、他に当時の人物としては、天智天皇、柿本人麻呂、山部赤人が入っています。
これから、「持統の生涯を方丈号で辿る」と題して、第41代天皇であった一人の女性の物語を始めます。
“さらら” “さらら”と呼びながら育てると、本人はのびのびとすくすくと育ち、親も回りもなんとも幸せな気分になっていくようです。素晴らしい響きだと思いませんか?
“さらら”は持統天皇の幼少期の呼び名です。
持統という名前は、漢風諡号と言われ、後の時代に着けられました。生きている間は、「うのの “さらら” ひめみこ」(鸕野讚良皇女)とされています。
そして、呼び名は、“さらら”です。
諱というのは、高貴な人の実名、本名です。幼い頃に名付けられます。諱を発音して呼べるのは、親、夫など限られた人々だけだそうです。周囲の人々は単にひめみこ、おおきみなどと呼んでいました。しかし、諱が実際にどのように使われたかはわからないようです。
3世紀終わりにヤマト王権が出来てからも、大王の後継者争いと半島新羅と南伽耶の鉄権益を巡る戦いが続いていました。
これらの争いの中で、現在の日本に通じる国家体制、政治の仕組み、外交方針などの根幹が創り上げられました。
なかでも、天皇が正統な統治者であることを示す日本書記は、神代から持統天皇迄が載ります。そこには、夫天武天皇と持統天皇の過去への懐いと、将来へ託す想いが大きく関わっています。
古事記も同時に編纂され、出雲伝説を中心に、史実と神話が繰り広げられます。
その後、千年数百年に亘り、日本書紀に書かれた歴史が史実化され、頭に植え付けられて、人々の生活、行動にも大きく影響を与えてきました。刷り込みには万葉集に代表される和歌などが一役買っています。
これから、持統天皇が上代からの歴史の流れをどのようにとらえたか、そして、現在の日本に通じる国の根幹システムを、どのような想いを胸に秘めて創り上げていったかを探ります。
方丈号で辿った史実の現場を写真、映像などを合わせて紹介してまいります。
さて、現代と古代では発音が違います。“さらら”の「さ」は、「さ」と「つぁ」の間のような音だったようです。文字では表しづらいですが、”sつぁらら”と発音していたようです。ここでは、現代書き言葉に従って、“さらら”と書きます。
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