第1章 鸕野讚良皇女(うののさららひめみこ)誕生

第1章 鸕野讚良皇女(うののさららひめみこ)誕生

1.讃良郡が“さらら”の由来
讃良郡(さららぐん)は、広い野原(廣野)

赤枠部が”河内国讚良郡(さららこおり)です。
現在の四条畷市とその周辺を合わせた地域です。そして、讃良郡に“うの”(鸕野)という名前の邑があり、そこで、“さらら”は育てられました。

“さらら”は、西暦645年、乙巳の変の年に生まれ、父は舒明天皇の皇子である中大兄皇子で、母は蘇我氏傍流の倉山田石川麻呂の娘、遠地娘(おちのいらつめ)です。

生まれてすぐにつけられた諱は、“うののひめみこ”(鸕野皇女)で、育てられた“鸕野邑”の“皇女”という意味です。この名前が一般に広まっています。諱は通常、育てられた土地、養育した氏族の名前の「一つだけ」を使っていました。

しかし、“うの”(鸕野)に、“さらら”(讃良)重ねました。
誰が、何故、重ねたのでしょうか?先に述べたように、自らの名前といえる“諱”を呼べるのは、親などに限られています。
“さらら”は、鸕野邑より広い讃良郡からとっています。その語感はすくすく育った皇女を表し呼ぶにふさわしい名前です。女性らしく、さわやかで明るい雰囲気を醸し出します。鵜野皇女のままでは小さな鸕野邑の皇女となってしまいます。“さらら”は、讃良(さらら)郡のもっと広い野原で大きく育ち、天武天皇の跡を継いで女帝になります。

“さらら”はお気に入り
母の遠智娘(おちのいらつめ)が“さらら”と呼び始めたのでしょう。この土地の支配者である祖父の倉山田石川麻呂もそのように呼び大変にかわいがったようです。当人も気に入り生涯に亘り、“さらら”を使っていました。

“さらら”と呼んでくれる人々は大好きでした。夫大海人皇子もそう呼び、父方の祖母の斉明天皇もそう呼んでいたのでしょう。しかし、父の中大兄皇子はどうだったかはわかりません。

”さらら”はヤマト王権の中心で育つ

”さらら”の父は中大兄皇子、父方の祖父は舒明天皇、その皇后は後に天皇となる皇極・斉明天皇です。
又、母方の祖父は蘇我氏の有力者の蘇我倉山田石川麻呂です。
”さらら”はヤマト王権の中心で産まれ、育ちました。

しかし、母遠地娘が父中大兄皇子と結婚したいきさつは驚くばかりです。
というのは、中大兄皇子と結婚するはずだったのは姉(長女)だったのです。しかし、婚姻前日に祖父石川麻呂の義兄弟である蘇我日向がその姉を奪い去りました。母遠地娘は、祖父石川麻呂のため、急遽、自ら進み出て姉の代わりに中大兄皇子と結婚しました。

母遠地娘は結婚の複雑な心境を覆い隠すように、“さらら”に愛情を注ぎました。祖父は、祖父で遠地娘への申し訳ない気持ちを払しょくするように、“さらら”に愛情を注いだのかも知れません。このように、母と祖父はお互いの傷を隠すように、“さらら”を大事にしたのでしょう。

2.祖父の庇護と馬飼族
祖父倉山田石川麻呂の庇護
蘇我氏は葛城周辺を本拠地として支配地域を広げたと言われています。
当時の蘇我氏の支配地域は左の図の赤点線で囲った辺りでしょう。蘇我氏は、武内宿禰を祖として、葛城出身で、南は吉野から飛鳥、河内石川まで勢力を持っていました。渡来人を配下に置いて、技術や統治の方式で抜きんでていた氏族です。
祖父の倉山田石川麻呂は、蘇我氏の有力なメンバーです。この図中央の石川の名前が残っている地域出身ではないでしょうか。

馬飼い族に育てられる
”さらら”が育った牧場の南には、神武が長髄彦と争い負けた、饒速日、後に続いた神武、戦って敗れた長髄彦の本拠地があります。
それぞれに行ってみました。

 


牧場と馬

現在のこの眺めで、当時の牧場を連想できるでしょうか?

四条畷市には大規模な遺跡があります。讃良郡条里遺跡(蔀屋(しとみや)北遺跡)です。
図6は遺跡で発掘された、馬の全体骨格です。
縄文時代から鎌倉時代まで続くこの遺跡の調査報告書は、「ここでは、土坑に埋納された馬の全身骨格が出土したほか、馬具も含まれており、『日本書紀』に登場する「沙羅羅馬飼」「菟野馬飼」に関係する「馬飼集団」のムラがあったと想定されるにっています。」と言っています。

「新撰姓氏録」には、河内国諸蕃に「佐良連。 出自百済国人久米都彦之後也」とあるので、百済系の人々です。
その後、育て親の氏族は、天武12年に娑羅羅馬飼造という名前を得ています。

3.河内は渡来人と先祖の通り道
渡来人の馬飼い族が日向からやって来た
5世紀頃から、多くの馬が馬飼い族と共に大陸から半島経由で北部九州に上陸しました。その後、南の日向に移り一大産地になりました。東にも向かい、急速に木曽、関東、東北まで全国に広がっています。5世紀後半の雄略期から記録があります。
当時の馬は農耕に使わず、戦闘にも使わず、豪族の金のかかる趣味、愛馬のようでした。威信材と言う人もいますが、高級外車のような扱いだったという方もいます。

推古天皇が、「馬ならば 日向(ひむか)の駒(こま) ・・・」と蘇我馬子に歌っています。日向の馬がこの河内にやって来ていたのでしょう。日向の馬を見てきました。
ここの馬は127cm前後で、御崎馬(みさきうま宮崎県都井岬(といみさき)に生息している在来馬です。

 

神武の戦場(孔舎衙の戦い)が近い
山の西側は、神武が船を降りて戦い始めて、撤退した現在の日下町です。長髄彦に敗れて南に迂回して、吉野から奈良盆地に入ります。

 

 

饒速日が降り立った(250年頃)
讃良郡鸕野邑の西の山の中に、先祖の饒速日が降り立った磐座神社があります。
河内湾に辿りついた饒速日がこの地を征服し、尾張など東の地を征服した後、東側のこの岩山の磐座に据えて祀ったのでしょう。壬申の乱では、天武たちは東国、東海地方から援軍を得ますが、饒速日と東海勢は深い関係があります。尾張氏、物部氏他です。

饒速日(250年頃)と長髄彦(280年頃)の拠点が近い

神武との戦った長髄彦の本拠地と饒速日の本拠地(鳥見白庭山)の碑は隣り合って立っています。

両者の関係を示しているようですが、長髄彦は殺されてしまいます。

ヤマト王権を造り上げてきたご先祖とその敵対勢力は、生駒山を中心に活躍していました。

平群は倭健(やまとたける)の歌でも知られる
讃良郡の南隣は平群郡で有力豪族の平群氏の本拠ですが、その平群の山は、倭健の国見で有名でした。倭建は“さらら”より約270年前の人で、人々の記憶に少し残っていました。その倭健が鈴鹿で死に臨んだ際に、平群の国見を懐い出して歌いました。
「命の 全(また)けむ人は 畳薦(たたみこも) 平群(へぐり)の山の 熊白橿(くまかし)が葉を 髻華(うず)に挿せ その子」
【通釈】俺の命はもう長くないだろう。故郷の土を踏むこともあるまい。だが、無事生き長らえ大和に辿り着いた者は、平群の山の大きい樫の葉を、髪に挿して飾れ。いいかお前たち。忘れるなよ。下記より抜粋しました。
https://www.asahinet.or.jp/~sg2hymst/yamatouta/sennin/takeru.html

さて、倭建は神武と同じ海の道を辿っています。偶然なのでしょうか?

「聡明な少女に育った」
“さらら”は生駒山山麓に広がる牧場(まきば)では育ちました。広々した野原ですくすくと育ち、“さらら”は活発な女の子になりました。馬にも乗れたでしょうし、馬飼いの人々、百済渡来人、官女など様々な人々に囲まれて、いろいろなことを学びました。
小さいながらも、倭建の歌も、神武が戦った戦地も訪れて、先祖が国造りを行った事も知り、広い視野を持つ聡明な女性に育っていきます。

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