第2章 悲しみと喜び

第2章 悲しみと喜び
4.祖父と母が相次いで亡くなる
祖父は謀殺(649)、母も世を去る(650頃)
そして、悲劇が訪れます。西暦649年に、祖父が異母弟の蘇我日向の讒言により中大兄皇子と孝徳天皇に謀られ、山田寺で一族を道連れに自殺に追い込まれてしまいます。
讒言したのは前述の母遠地娘の姉を奪い取った蘇我日向でしたが、その後、出世したとも隠遁したとも言われています。

更なる悲しみは、その後、祖父を慕っていた母遠地娘は心身ともにまいってしまい、失意のまま憔悴して亡くなってしまったことです。650年頃と思われます。
“さらら”は4歳で祖父とその一族を亡くし、67歳で母を亡くします。幼い子が最愛の二人を相次いで亡くしてしまうという悲しみをどのように受け入れていったのでしょう。

祖母斉明が救い
その後、自分を慰め大きく育つよう目をかけてくれたのは斉明天皇でした。
斉明の宮側に移り育てられました。そこはヤマト王権の中枢でしたので、様々な事柄、特に、帝紀・旧辞・中国の歴史書などを学ぶ機会もあったと思われます。

そして、“さらら”の父は中大兄皇子ですが、祖父を死に追いやった首謀者であるのもわかり、王権内の複雑な関係に気づき始めました。

この頃、王権内の権力争い、特に後継者争いは日常茶飯事のようでした。
古代の高貴な人々の関係で絆が強いのは、母と子、夫と妻でしょう。それ以外は殆ど他人、競争相手、更には、敵対関係と言ってもよいのではないでしょうか。
つまり、父にとって沢山いる娘は政略結婚させる駒でもあり、又一緒に暮らしているわけでもないので、愛情を注ぐ対象でなくなってしまいます。

5.大海人皇子との結ばれる(657年)
国難が二人の絆を強くした
“さらら”は13歳(西暦657年)にして、父親中大兄皇子の弟大海人皇子と結婚します。この婚姻は、中大兄皇子が決めたようです。父である中大兄皇子が決めた通りの人生でしたが、これからは、夫大海人皇子と共に歩む人生となります。

大海人皇子と“さらら”が親密さを増して、信頼しあうようになったのは、百済救済のための出兵に同道して九州に一緒に行った前後からではないでしょうか。“さらら”17歳の時です。

 

 

最初の子(草壁皇子)を博多で出産したことは、可愛い“さらら”が母になり、後継者得たことです。更に、二人は倭国軍の完全敗北と無謀な戦いを挑んだ中大兄皇子とそれを許している政権構造のもろさを目の当たりにします。
道中でも、帰ってからも、問題点の共有と決方策を話し合ったことは、壬申の乱前後での命を張った関係が強い夫婦の関係の基盤になっていたと思われます。

夫は倭国から「日本国」へ変貌させる構想力と意志を持ち、壬申の乱で見せたような統率力がありました。しかし、多く妃を持ち、額田大王を天智と取り合うなど、女性に対しても積極的でした。
でも、とにかく、“さらら”は大好きでした。

夫大海人皇子は最高
自分を“さらら”と呼んでくれ、愛してくれる、夫大海人皇子が安らぎの相手であったことは間違いないでしょう。 “さらら”と大海人皇子に呼びかけられたときは至福の時でした。

大海人皇子は多くの妃(妻)を持っており、当時それは当たり前のことと理解していましたが、姉の太田皇女にはライバル心をむき出しにしたかもしれません。

“さらら”、大海人皇子とも、策謀渦巻く王権内の争いに嫌気を差していました。

6.策謀渦巻く時代
蘇我・物部戦争(587年)
蘇我稲目と物部守屋との最終決戦は衣摺の戦い(丁未の乱)と言われています。蘇我氏側の厩戸皇子は戦勝祈願を行い、四天王寺の建立を誓いました。この戦いに勝って蘇我氏は権力中枢を占めるようになりました。

崇峻暗殺(592年)
物部に勝利した蘇我氏、蘇我馬子に擁立されて大王となったが、馬子を亡き者にようとして、逆に馬子の命を受けた東漢直駒に殺されました。記録に残っている限り大王(天皇)が殺されたのはこれだけです。

山背一家皆殺し(643年)
皇極天皇の後継者を巡る争いの中で、蘇我入鹿は、聖徳太子の息子である、山背大兄王とその一族を皇極天皇の命令により滅ぼしました。

乙巳の変は藤原・蘇我の主導権争い(645年)
“さらら”は西暦645年に生まれましたが、この年に乙巳の変が起こります。
蘇我入鹿暗殺事件です。元々、蘇我本宗家内で蝦夷から入鹿の直系相続について争いがあり、それに、鎌足、中大兄皇子が付け込み、一気に入鹿を暗殺しました。入鹿は自分に権力を集中させ、半島との戦いに乗り出そうとしていた矢先におびき出されて殺されてしまい、父蝦夷も一緒に亡くなりました。
どちらが政治の主導権をとるかという、単純な権力争いと言えます
中臣鎌子(鎌足)が案を作り中大兄皇子などを操って実行しました。蘇我勢力の祖父石川麻呂を引き込み、高向国押(河内出身蘇我氏族)も離反させて実現しました。首謀者は、“さらら”の父である中大兄皇子と中臣鎌足です。

逃げた古人大兄皇子は攻め殺される(645)
乙巳の変後、皇極は退位するが、その後継候補であったがそれを断り、出家して吉野へ隠退した。(吉野寺)皇位には軽皇子(孝徳天皇)が就きました。

しかし、同年9月12日 吉備笠垂(きびのかさのしだる)が「古人大兄皇子が謀反を企てている」との密告を受け、中大兄皇子が攻め殺しました。

難波宮遷都(652年)と皇徳追放(655年)
ここからは“さらら”が生まれた後の出来事です。8歳の時(652年)に、大叔父さんの孝徳天皇は難波宮に遷都して、一族、官僚など全てが引越しました。“さらら”も父中大兄皇子に連れられて行きました。

しかし、何が気に入らないのか、父の中大兄皇子は、実妹の間人皇后、母寶皇女(前皇極天皇)などを連れて、早々に飛鳥に引き上げてしまいます。孝徳天皇は孤立してしまい失意のうちに病死します。息子の有馬皇子は追及を恐れて、病と称して白浜温泉に隠れました。

因みに、大叔父の孝徳天皇のお嫁さんは、間人皇女(はしひとひめみこ)で中大兄皇子の妹ですが、近親相姦の噂が続いています。

斉明に不満を漏らしたとされた有馬皇子(658年)
”さらら”の結婚1年後のことです。有間皇子が縛り首にされました。

口を滑らして斉明天皇の大規模土木工事などに不満を表明したというのも一因と伝わります。日本書紀にあるように、「狂心の渠」とこき下ろしたのかも知れません。
これが本当なら、斉明は激怒してもおかしくありません。

しかし、中大兄皇子の意を受けた蘇我赤兄が有馬皇子を唆し、有馬皇子が不満を口にしたところを告げ口されたというのが真相のようです。
これで、孝徳天皇一族はつぶされました。

祖父倉山田石川麻呂が謀殺される(649年)
母遠地娘が中大兄皇子と結婚せざる得なくなった原因を作った(結婚する予定の姉を略奪した)蘇我日向が、祖父石川麻呂に謀反の計画ありと中大兄皇子に讒言しました。

この讒言を信じた中大兄皇子は孝徳天皇に報告し、孝徳はそれが真実か石川麻呂に問い合わせましたが、祖父は直接孝徳に弁明したいと答えたため、山田寺を包囲しました。
結局石川麻呂は妻子共々、山田寺で自害しました。

中大兄皇子、蘇我日向、皇徳に謀られたと思われます。

「王権の歴史と策謀の世界を意識する」
“さらら”が生まれてから、周囲では讒言、謀殺、暗殺が相次ぎ、そのような環境に慣れてしまっても全く不思議ではありません。

しかし、高位の皇女であるので様々な書物、人物に巡り合う機会に恵まれていました。聡明な娘は過去の出来事、祖先の系譜(帝紀、旧辞)などの知識を蓄えます。又、遣唐使、半島との戦いの話などを通じて海外の情報も理解していたに違いありません。王権の運営は大王親族が中心となる皇親政治の渦中に自分がいることを意識し始めました。

周りを見渡すと、身近な人々の自分勝手な権力闘争と彼らの非業の死も目の当たりにします。多くの策謀には父中大兄皇子が関わっており、複雑な思いが出始めていたのでしょう。今風に言えば、入鹿も中大兄もとんでもない権力亡者です。

救いは、大海人皇子との結婚でした。

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