第3章 飛鳥を改造する斉明
7.皇極時代から雨乞い儀式
南無天(なもで)踊り
皇極天皇は642年に飛鳥川上流で雨乞いを行い、実際に雨が降ったと伝わります。
これは江戸時代に踊られていた舞いを再現しています。
明日香村伝承芸能保存会の方々です。雨乞いは自然信仰に根付く、人間の基本的な願望です。
皇極・斉明天皇は、天に向かう巫女を体現しています。つまり、天皇ですね。
水と龍(龍神)
水は変幻自在に形を変えます。満々と水をたたえる、那智の滝のように荒々しく飛び落ちる、小川を優しく流れる、大河を悠悠と流れる、淵に留まった水は、次は瀬を流れる。掬って飲めて切れることない姿を長い龍に例えているのだと思います。
8.たわぶれごころの溝(人工運河)と水の施設
狂心の渠(たわぶれごころのみぞ)
天理市の石上山と豊田山の天理砂岩を飛鳥に運ぶために、人工運河を造りました。
日本書紀では、これを「狂心の渠(たわぶれごころのみぞ)」と呼んだとあります。
有間皇子がこの運河掘削を見て嘆いた事をこのように伝えているのでしょうか?
飛鳥板蓋宮から東に多武峰が望めます。日の出の方向に向かって祭祀を執り行っていたという話もあります。
酒船石と石垣遺構・・・石の山丘の一部
水に関連する施設だろうと思われますが、具体的な使い方などは伝わっていません。
酒船石は、上部のくぼみに水を張りその周辺に流すような装置かでしょうか。
石垣遺構の石は室町時代に山城を造るため取り払われたという話もあります。此処は斜面ですので、石垣に覆われた丘のようだったと推察します。
亀形石造物は、やはり、水を流して何かしたのでしょう。実用的な井戸とも思われません。
水に関連する祈りの場であったのでしょう。
半島では百済が苦戦していましたので、百済びいきの斉明は、その勝利を祈ったのかも知れません。
亀形石造物・・・祈りの場
9.前方後円墳から八角墳へ
夫舒明のお墓を八角墳にした
4世紀に始まる古墳時代では、吉備、出雲型の墳墓に北九州征服勢力の特徴を備えた、所謂、前方後円墳が畿内から全国に拡がりました。その大きさを競うように厚葬のシンボルでした。
しかし、神仙思想に影響された斉明は、天皇は天(宇宙)を治める現人神であるとして、基本形を八角形にして、墳墓の大きさも従来より小型化しました。
夫の舒明が亡くなり、一旦は「滑谷岡陵(なめはざまのおか)明日香冬野」に葬りますが、翌年の9月6日(643年10月23日)に「押坂陵(おしさかのみささぎ)=段ノ塚古墳」に移葬したとあります。
段ノ塚古墳が初めての八角墳で、その形は復元図のように台形状の方形壇の上に八角形の墳丘をのせる八角墳です。
現人神は八角墳に埋葬する
斉明は夫舒明天皇を八角墳に埋葬しました。自らも、牽牛子塚古墳に娘の間人皇女と一緒に葬られます。
舒明から文武までが八角墳となっています。
八角墳にしたのは、八角形が天下八方の支配者にふさわしいという大陸、神仙思想の影響です。
「やすみしし(八隅知し)」は天皇を讃える歌の枕詞ですが、万葉集にはこの枕詞を使った歌がいくつもあります。
息子の天智は山科陵(やましなのみささぎ)に葬られます。宮内庁では上円下方(八角)と言っています。飛鳥から遠く離れます。
天武は隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ=野口王墓古墳」)で宮内庁は上円下方(八角)に治定。
主人公の”さらら”持統天皇との合葬陵です。”さらら”は火葬されて壺に入っています。
”さらら”の息子、草壁皇子は真弓山稜=束明神古墳、孫の文武天皇は中尾山古墳です。
これらが、大王・天皇の八角墳の全てで、斉明、持統の影響力が強かった時期に限られます。その後は円墳などに移行し、仏教の影響を受けて薄葬が多くなります。
牽牛子塚古墳、中尾山古墳からは鏡はまだ出土していません。この時代から鏡を副葬しなくなっているようです。類推すると、自らが神なので、神の象徴である鏡(太陽)は不要としたのでしょうか。斉明は神仙思想と鏡は相容れないと考えたのでしょうか?
10.神仙境宮滝に吉野宮を建てた
急流宮滝と水の祭祀
斉明になってから、吉野川宮滝の地に吉野宮を建てて、そこで水の祭祀を執り行っています。
水の祭祀とは、日照りが続いたときの雨乞いと長雨が続いたときの雨止めの儀式です。
因みに、吉野川上流に丹生川上神社上社、中社ががありますが、その祭神は龍です。吉野川には神仙の影響が残ります。
神仙境に吉野宮を建てた
水信仰は基本的な人間の願望の現れで、縄文以前から人々が信仰する自然信仰の中核でした。祖先信仰と両輪でした。紀元前3世紀頃に大陸から伝わった神仙思想は、自然信仰と融合しました。特に水は龍の化身で、龍神信仰となります。
宮滝は、山々が連なりその間を流れる急流吉野川とともに、神仙境を具現化した自然環境です。
この神仙境に吉野宮を建て、より身近に神仙を感じたかったのでしょう。
此処は神武東征の通り道
日本書紀では、神武は南の熊野から宮滝付近に降りたって奈良盆地に攻め入ったとあります。青点線
実際は後述の通り、吉野川を遡って宮滝に至ります。白線
いずれも、宮滝付近を通り、国栖など地元勢を味方に付けて、軍勢を整えました。
宮滝の地は、神武以降重要な場所なので、応神は国栖と交流したと伝わります。又、雄略もこの地を訪れています。
「斉明のカリスマ性を継承する」
”さらら”はこの頃は聡明な少女となっていましたので、祖母斉明の土木事業を目の当たりにしていました。又、人工運河を、有間皇子が「狂心の渠」と評して縛り首になったのも分かっていた筈です。
皇極時代には、地震、長雨、日照りなどの自然災害が多発しました。蘇我蝦夷が雨乞いしましたが小雨に終わった後に、皇極が雨乞いを行い大雨を降らせ成功します。
水の祭祀(雨乞い、雨止め)と神仙思想は親和性が高く、天皇が現人神として国を統べるのに、神仙思想は有効だと気付きました。
斉明のカリスマ性、一種狂気とも思える一途に物事を進める姿は求心力を高めました。後述する百済救済の九州遠征などの推進力ともなりました。
これらを見て育った”さらら”は、その実行力、カリスマ性を継承し、後年の藤原京造り、文武天皇誕生への執念などに繋がります。
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