第4章 九州遠征で知る先祖
11.百済救済のため総力を挙げた
斉明、中大兄皇子は百済びいき
崇神天皇以降、日本書紀には新羅との戦争、半島での内部抗争などが記載されています。飛鳥時代の推古天皇の頃からは、倭国(日本)は百済に肩入れして新羅と対立しています。紀元前からの鉄の権益争いが背景にありました。
その百済が新羅に滅ぼされその再興のため、百済びいきだった斉明、中大兄皇子は、飛鳥に滞在していた百済の皇子(豊璋)とともに半島に大量の軍隊の派遣を決意しました。
主要皇族を引き連れた
九州博多に前線基地、朝倉に宮を造り主要皇族を連れて行きます。大海人皇子と”さらら”、太田皇女、額田王を始め、飛鳥からの大移動です。軍隊だけではなく、ヤマト王権そのものが移動する勢いでした。勝って、祖霊の地に遷都したかったのでしょうか?
遠征途中の松山で額田王が、軍勢が正に船出しようしていると謳ったとされるこの歌は、斉明と舒明が道後温泉に来ていたの思い出した愛の歌であるという解釈もあります。
「熟にき田た津つに 船ふな乗のりせむと 月待てば 潮しほもかなひぬ 今は漕こぎ出いでな」
1万2千人の軍勢が東から西へ
移動したのは大軍勢です。畿内から1万2千人が移動したという話も伝わります。北部九州にはそれ以上の軍隊が駐留し、そこから半島に向けて海路を渡って進軍しました。
何百艘もの船を調達して、続々と対馬海峡を渡り白村江に向かいました。上陸して半島内部を進軍した部隊もありました。
12.草壁皇子を産んだが、大津皇子も生まれた
662年、遠征途中の博多で待望の息子、草壁皇子を産みました。大海人皇子も後継者が生まれ大変喜びました。
大海人皇子と“さらら”が親密さを増して、信頼しあうようになったのは、この頃からではないでしょうか。身重の身体で飛鳥から九州まで移動するだけで身体の負担は大きいですが、草壁皇子を得たことで苦労は報われました。
しかし、翌年には、姉太田皇女にも大津皇子が生みます。将来のライバルです。
13.筑後川沿いの朝倉に陣を敷いた
斉明は天照を祀る麻氐良布神社で戦勝祈願をした
660年に九州に入った皇族一行は、太宰府よりも奥にある朝倉に橘広庭宮を造営して逗留しました。
新羅との戦いに勝利したら、この朝倉に遷都したかったのではと思わせます。橘広庭宮跡は小山の上にありますが、皇族一統が住むには十分な広さはありません。
そばには卑弥呼が天照として祀られている麻氐良布(マテラフ)神社があります。天照(アマテラス)を祀っています。
この神社に額ずき、斉明一行は先祖天照に、百済救済、新羅討伐の戦勝を祈願しました。
先祖卑弥呼が邪馬台国を統一したのにあやかったのでしょう。
天照は卑弥呼、そのお墓がある
朝倉は後述するように邪馬台国があった場所です。卑弥呼を天照として祀り始めたのは、この麻氐良布神社でしょう。
橘広庭宮、麻氐良布神社のそばに、長田大塚古墳があります。
高速道路の山田SAの隣です。
因みに地名の山田は邪馬台国の中国読みに当たります。又、長田は古事記にも出てくるように、天照の田んぼの意味です。
この古墳は卑弥呼の墓と言われています。
14.天孫降臨の地にも赴いた
天孫降臨の地
”さらら”は足を伸ばして先祖の地、天孫降臨の地の日向に赴いた可能性があります。
古事記、日本書紀の編纂を前にしたこの時期には、天孫降臨の物語は殆ど出来上がっていたと考えられます。
朝倉で戦勝祈願をした後、赤点線に沿うように、朝倉から筑後川を遡り、高千穂似抜けて五瀬川を下って日向灘に出たのでしょう。
そのあとは、南下して隼人(熊襲)との戦いの最前線だった高屋神社まで、先祖の事跡を訪ねたのだと思います。
高千穂峡を訪れた
3世紀中頃に、高千穂の峰に降臨した瓊瓊杵は高千穂峡を越えて、五瀬川を下りました。
此処は吉野宮がある宮滝によく似ていました。
高千穂には、高千穂峡と神社以外に、降臨した櫛降峯とその神社、天岩戸、天安河原などがあります。(クリックしてください)
瓊瓊杵と木花開耶姫の物語
瓊瓊杵が笠沙の岬で木花開耶姫と出会ったという話は、”さらら”、大海人ともよく知っていました。
自分たちの出会いを重ねて、笠沙岬から日向灘を望んだことでしょう。
これから国造りを始めるという運命を感じたのかも知れません。
日向で、景行と倭建に祈った
4世紀の景行天皇の時代には、倭建と景行が九州征伐を行いました。
その足跡は特に山幸彦と重なります。山幸彦と海幸彦の戦いは、天孫族と熊襲との戦いだったのでしょう。
これは神武が日向から海を北上した東征物語に多く影響を与えました。
仁徳皇后のお墓に詣でた
磐之媛(いわのひめ)は、5世紀前半の仁徳天皇の皇后で日向出身です。
現在の西都原古墳群の女狭穂塚古墳がそのお墓とされています。
皇后は嫉妬深い女性と伝わりますが、その皇子たちは3人も大王(天皇)となりましたので、王権内での実力は高く、”さらら”はそれに肖りたかったのでしょう。
牧場も訪れた
日向は”さらら”が育った牧場の馬飼族もこの地が本拠地でしたので、この地に赴くにはその馬飼族が付き添ったのかも知れません。
推古が馬子に、「馬なら日向・・」と言ったように、ヤマト王権とこの地のつながりは深いものでした。
「邪馬台国と天孫神話を実感した」
九州遠征では、祖母斉明は百済への出兵は中大兄皇子に任せて、自らは巫女として先祖天照(卑弥呼)へ戦勝を祈願する事に専念したようです。
”さらら”は、その姿を見て朝倉の地が邪馬台国である事を確認し、実在と混ざり合いながら生まれた天孫降臨の舞台である日向三代の地を訪ねたと想像します。
特に、景行・倭建の事跡は、天孫降臨から神武東征までに関わる元となったのではないか、日向は大王たち(天皇)が活躍した故郷であると実感したのでしょう。
そして、身重のからだで九州に赴いたことに神功皇后の物語に自らを重ねましたし、磐之媛のお墓では草壁皇子が将来大王(天皇)となる事を祈ったのだと思います。
更に、伊都国の女王のお墓と言われる伊都国の平原王墓にも詣でたのでしょう。卑弥呼のお墓という説もあります。
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