第5章 白村江完敗して、“国家”を意識する
15.斉明を亡くす
斉明天皇は戦勝祈願した、たった二月半後の661年に亡くなってしまいます。67歳でした。
遠征の無理がたたったのでしょう。
高齢を押して、何か強烈な思いを持って九州朝倉にやって来て、戦勝祈願した後に力尽きてしまったとも考えられます。
”さらら”の心の内はどのようなものだったのでしょうか。斉明のカリスマ性(巫女気質)と実行力を受け継ぎたいと強く意志を固めていたのかも知れません。
斉明の殯は現在の恵蘇八幡宮の地で行われ、その後に奈良に運ばれ八角墳の牽牛子塚古墳に埋葬されました。拝殿の裏山に殯御陵跡があります。
16.白村江で完敗し逃げ帰る
白村江の戦いは完敗
中大兄皇子は西暦661年から663年にかけて、半島百済救済のため新羅を攻めまていました。
しかし、663年の白村江の戦いで、援軍の唐を加えた唐新羅の海軍に完敗しました。
1万2千人を近畿から九州まで動員し、総勢数万人の大軍を組織していましたが、海戦では唐に圧倒されたと言います。
中大兄皇子は大津宮に逃げ帰る
大敗を期した後、中大兄皇子は外敵から守るのに容易な大津皇子宮に籠もってしまいました。
その後、西暦668年にようやく即位しました。唐からの使者が来るまで震えていたのでしょう。
太宰府に水城と各地に山城を造る
唐の巨大な力を知った天智は博多湾と朝倉・大宰府との間に水城を築き、又、九州までの各地に山城を造り防人を置くなどして、防衛を強化しました。これらの大土木工事を短期間でやり遂げるには、統治力が必要でした。
鎌足は記録されない
この対外遠征に鎌足の名前は出てきませんが、当然、裏で画策していたのでしょう。何故なら、乙巳の変の目的の一つは、百済との関係強化し新羅を討伐することだったからです。
日本書紀編纂に当たり、白村江の失敗を天智天皇の所為にするため、息子不比等は、藤原氏は敗戦に無関係であるという立場をとったのでしょう。天武、“さらら”も同意しました。
鎌足は翌年の西暦669年に亡くなっています。
17.国家を構想する
正統史書(日本書紀)には卑弥呼も邪馬台国も無い
“さらら”もヤマト王権中枢の人々も、中国の史書、魏志(東夷伝倭人の条)=魏志倭人伝などから、大陸、半島の状況に通じていました。
北九州勢を中心とする倭国は、半島と数百年間も闘いを継続していました。その中心国の邪馬台国を率いる卑弥呼は、西暦239年に魏より「親魏倭王」の称号を得、合わせて「金印」も貰っています。
卑弥呼の名前は魏志倭人伝に出てきますし、自分たちの祖先のことは語り継がれているので、その事績にも詳しかったはずです。
「日本書紀」神功皇后記39年の段に魏志倭人伝を引いて、倭の女王がこの年(景初3年=西暦239年)に魏に朝貢したとありますが、邪馬台国も、卑弥呼の記載はありません。
正史の上で、倭国は「日本」に、邪馬台国は「高天原」に、そして、卑弥呼から「天照」にとって代わります。
何故でしょうか?
魏国に屈した卑弥呼
卑弥呼を天照に置き換えた以外に、卑弥呼を抹消したかった理由がもう一つあります。
卑弥呼(邪馬台国)は魏国をバックにしていました。外国の魏から「親魏倭王」の称号をありがたくもらい、その力を背景に、邪馬台国は北部九州をまとめ、その後東遷を開始して、出雲、奈良盆地、東海地方に進出して各地を支配しました。
この外国の力を借りて全国制覇していては、天皇の統治正統性は謳えません。
卑弥呼が貰ったという鏡100枚は銅鏡だけではなく、当時同原料が不足していた魏で創られた鉄鏡も入っていたのではないかという考えがあります。下の図は、朝倉の上流部にあるダンワラ遺跡から発掘された鉄の鏡です。近年、魏の曹操のお墓で発見された鉄鏡とよく似ています。魏からは、この鉄鏡も贈られたのでしょう。
卑弥呼は退場し天照が登場する
倭国を独立国家日本として強調したい“さらら”と大海人皇子は、卑弥呼の存在を歴史書から抹消し、代りに天照を中心とする高天原物語を完成させました。
多くの氏族はその先祖の物語を持っていましたが、不要なものは切り捨てました。
卑弥呼は死後早い時期に天照として祀られていましたが、高天原伝説の基本形は雄略期辺りには語られていたと思われます。万葉集の冒頭に雄略の歌を載せ、地上にあるものは全て私のものだと歌います。私は神だと言っています。
いわゆる倭の五王が5世紀に大陸と交流し、天子という考え方を倭国に持ち込みました。ただ、「日本」では、天を司る天子では亡く、縄文以前より広く根付いていた自然信仰の頂点に天皇を当てはめます。先ずは食が大事、そのシンボルとして瑞穂の国という概念を創りだし、自らがその頂点である「神」としたのです。
高天原物語の創作に当たっては、実際の出来事を下地にしていたので、当時の人々には受け入れ易かったのではないでしょうか。
卑弥呼が死に台与が受け継いだと事と日蝕を掛け合わせた天岩戸伝説などはその典型だと思います。
伊邪那美は熊野で稲作を始めた
日本書紀では、伊邪那美は熊野有馬に葬られたとあります。花の窟神社です。
伊邪那美が七里御浜で釣りをしているときに、漂っていた青々としたものを釣り上げてみたら、中にはハマユウの葉に幾重にも包まれた稲穂をが入っていました。
その稲穂を近くの沼に撒いておいたら稲が実り、この地方の稲作が始まったという、有馬の稲穂という伝説があります。
“さらら”は、自身を神功皇后にも重ねた
“さらら”は九州朝倉橘広庭宮を訪れた際に、卑弥呼と共に、神功皇后と推古女帝に懐いを馳せました。
身重の神功皇后には、新羅に勝っていてほしかったという想いました。(実際は敗退しています)又、神功皇后が生んだ皇子は立派な応神天皇になりますが、自分が生む皇子(草壁皇子)も同じように立派に育ってほしいという想いを強く持っていました。
九州の神功皇后の主な伝承地 ”さらら”の実体験と創作が重なっているだろう | |
香椎宮(福岡市) | 新羅征討の神託を受ける |
松峡八幡宮(筑前町) | 熊襲討伐の前線基地が置かれた。 |
宇美八幡宮 (宇美町) | 皇子(応神天皇)を出産した。「産み」が町名の由来と伝わる |
皇后石(吉富町) | 皇后の命でつくった船をつないだとされる巨岩 |
石八幡宮(糸島市) | 出産を遅らせるため腰に巻いた石を祭る |
東風石(壱岐) | 船を走らせる追い風が吹くように祈願すると、祈りが通じて石が割れた、と伝わる |
嬉野温泉 | 皇后が外征の帰途に温泉を発見した伝説が残る。その時に「あな、うれしの」と言ったのが嬉野の地名の由来。 |
宇佐神宮 | 名物土産の「宇佐飴」は、皇后が皇子を育てる際、母乳の代わりに使ったとする御乳飴の由来を持つ |
又、前述のように仁徳皇后の磐井姫にも息子の将来を願ったと思います。
更に、推古は歴史書を編纂させ、聖徳太子を用いて隋に人を派遣し、又、高句麗との戦いに意欲を見せていたなど長きに亘り(在位35年間)事跡を残していますので、推古にも影響された可能性は十分にあります。
天武の後を継いで女帝として差配をふるっている自分を、新羅、高句麗と戦った神功皇后に重ねますが、神功皇后の失敗は糊塗しています。
“さらら”のご都合主義、見栄張り的な性格も表れているようです。
18.現人神の下、「日本」を創る
「日本」を創る
大海人皇子と“さらら”は、唐・新羅に完敗したの目の当たりにして、海外勢力に自らが大きく左右される実態に強い衝撃を受けました。
強力な武力を持つ相手に安易な百済救済策を取ったことは従来の鉄の利権を巡る争いとは全く勝手が違いました。
対外関係の中で、倭国が強い主権家「日本」になるために何をすべきかを真剣に考えるようになりました。
対外的に一致団結して当たるには、大王家(天皇家)が全国の氏族(豪族)をまとめる正当な理由付けが必要でした。
その正統性を表す史書「日本書紀」を表そう決意したのだろうと思います。
思想(宗教)のバックグラウンドをしっかりとさせることと同期して編纂を行いました。
大国主が自然信仰の象徴
氏族(豪族)に広く知らしめるのに苦労していたと思います。
大王たちは天照(太陽=鏡)を信奉していましたが、他から見れば九州出身の荒くれ集団の神に従う理由はありませんでした。
そこで、崇神期には天照は脇によけ、全国に根付いていた大国主を三輪山に祀って国津神の総本山としていました。
大海人皇子も“さらら”も、縄文の昔から連綿と続く祖先信仰と大国主を祀る大神神社(自然信仰の象徴、八百万の神々の代表)は社会の基本様式であると認識していました。
自然物(山・川・木等々)に勾玉、黒曜石、温泉、磐座などに依代信仰が全国に根付いていました。出雲、諏訪、熊野などは典型です。
これで、自然信仰と祖先崇拝が基本の社会構造を大国主の名の下に収めました。
朝倉の大己貴神社はその元になっていると伝わります。
天皇は現人神、天照から始まる
現在、天津神系の神社は約2万社、国津神系は十数万社という調べがあります。圧倒的に国津神系が多く、全国津々浦々まで広がっています。国津神は日本社会の基盤です。
天津系神社は1300年かけて拡がり、特に明治期以降に激増したものと思われます。
”さらら”と大海人は天孫族の統治正統性を確かにするため、つまり国津神たちが従いやすくするために、大国主を中心とした国津神を尊重した上で、天孫族が太陽(天照)の下、全てを包含する(従える)という考え方で社会を統制しようと考えたのです。
天皇は現人神として宇宙ではなく、「日本」に君臨するという考え方です。
神仙思想も仏教も利用した
斉明が行っていたように、王権内では、国津神に整合性が高い神仙思想(道教)の不老不死以外の現世利益(雨乞い)を導入して利用していました。
更に、仏教の現世利益(病気平癒)と倫理性(人の道を説く)を信じるようになっていました。
天武は皇后”さらら”の病気平癒のため、薬師寺の建立を発願しました。
外来の刺激によって人々の信仰が、自然信仰一辺倒から変化し始めていました。
天津神に国津神たちが取り込まれて一つの神道(トップは天照)に統一され、そこに仏教思想を合わせた神仏習合が進みました。山岳信仰の修験道も大いに発展しました。
しかし、明治期に廃仏毀釈でその流れを止めようとしました。特に修験道への締め付けは厳しかったです。しかし、現在でも仏教徒であり神社へのお参りする習慣は変わりません。
このように、一神教的なトップダウンの宗教論から見ると、神と仏が混在する複雑怪奇な世界は、祖先信仰、自然信仰に神仙思想の一部天孫神話が被さり、更に仏教と習合してきたとみれば理解できるでしょう。
三種の神器
![]() |
![]()
|
![]() |
九州の様々な古墳の副葬品として、鏡、勾玉、剣が出土していますので、三種の神器と言っても特殊なものではありません。ただ、天孫族としての権力継承、神秘性を高めるため、恭しく伝わっています。鏡は元伊勢籠神社の辺津鏡と息津鏡とほぼ同じと推定されます。
「夫大海人皇子と新たな国造りを決意」
”さらら”は祖母斉明を亡くし信頼できるのは夫大海人皇子だけになりました。
父天智はずっと鎌足に操られています。全国の戸籍を作るなど律令国家の足下を固めたとありますが、これも鎌足が元となっていたのでしょう。
そんな中、鎌足が老齢となり弱るのを見るにつけ、二人は自分たちで新たな国造りを行おうと決意を固めていたのではないかと想像します。
根幹は現人神思想で日本を統治するという、国家の大きな柱を造り上げることです。
コメント