付記3 半島との争い

帆を再現してほしい

付記3 半島との争い

日本(倭国)の半島との争いは、新羅との争いと言ってよさそうです。
半島の歴史は、AD1145年完成の三国史記に頼らざるを得ません。完成時から1000年以上も前の記述は信頼できるのかという疑問は湧きますが、倭(日本)との争いでは、新羅が敗北したことも率直に書かれており、まあ信用して良いのではないでしょうか。

新羅建国はBC57年とされますが、その3年後のBC50年には倭人が侵攻してきたと記載されています。その後も、倭人が船で攻めてきた、倭人と修交した、使者を派遣し合ったなど、倭人(おそらく北部九州勢)という戦闘的な交流を描いています。
一方、日本側の記録はどうかというと、日本書紀の11代の垂仁期2年(AD359年頃)に任那と新羅の抗争が始まったとあります。
唐突に任那が出現しますが、この頃、任那は既に日本だったと言うことなのでしょうか?その前の初代の神武から10代の崇神までは半島のことは触れられていません。
百済について、継体期に任那他合計4県を割譲した、雄略期には日本の宮家である、などとありかなり近い存在でした。

高句麗との争いは記述されていません、逆に、半島の好太王碑文にAD390年倭国が攻めてきたが、敗退させたとあります。これが神功皇后の三韓征伐の結果でした。
日本書紀では高句麗に負けたことは記載したくなかったようです。

新羅関連で最も記述が多いのは、神功皇后期(AD390年頃)から雄略期(AD480年)までの約90年間には、新羅へ出兵が4回、新羅からの朝貢が4-5回となっています。
神功皇后期では、その2年から62年の間に7回ものやりとりを記載しています。

AD478年に雄略は、朝鮮半島南部の支配を承認するように宋に朝貢し、「安東大将軍倭国王」という称号を貰っています。大陸の力を背景に半島支配を進めようとした典型です。
神功39年には卑弥呼は魏に朝貢したとあり、卑弥呼は神功皇后であったという説にもなっています。
神功皇后は広開土王にAD390年に戦い敗れ、卑弥呼の魏への朝貢は西暦AD239年なので全く合いません。これらの記述は卑弥呼の存在を曖昧にしたかったようです。

何故、新羅と争ったのか?
弁辰の鉄の権益争いだったと推察されていますが、その理由の記載はありません。

「半島との争い」年表を参考にしてください。

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