第7章 国造りは途上、夫と息子を亡くす
23.天武即位して国造り開始
国造りの施策は前もって考えてあった
西暦673年に大海人皇子が天武天皇になってからは、二人で構想した国造りの実現に奔走しました。
・官僚の育成(官人、畿外豪族の出仕化)
・竜田祭と広瀬祭(五穀豊穣を国家祭祀にした)
・浄御原令の編纂開始
・日本書紀、古事記編纂につながる帝紀・上古の諸事定め
・富本銭使用命令
・八色の姓
・伊勢神宮の式年遷宮次第決めなどです。
これだけ多くの施策は即位した後に考案したわけではなく、九州遠征前後から、二人で構想を練っていたので、即位後に次々と実施出来ました。
日本書紀編纂
西暦681年に天武天皇が川島皇子以下12人に対して、帝紀、上古の諸事を元に編纂を命じました。完成は西暦720年で、舎人親王が編修事業をまとめたとあります。
神代から持統期までを、時系列で大王たちの出来事を漢文で記述されています。
古事記編纂
同様に天武期に編纂を指示しています。天皇の系譜と古い伝承をまとめて、稗田阿礼に口語で話させました。その内容を太安万侶が編纂して、西暦712年に元明天皇に提出して完成したとあります。
天地開闢から推古期までを、多くの歌と伝承を交えて万葉仮名で物語風に綴っています。
特に国の根幹となる、日本書紀の編纂は指示した時点で、その内容の方針、枠組みはほとんど決まっていたと思われます
しかし、それぞれ完成までには30年以上かかっている理由が判然としません。
24.天武が亡くなる、後継者は?
天武にお願い 吉野の盟約
姉の太田皇女が亡くなった後、甥の大津皇子の評判がよく頭角を現してきました。“さらら”は気が気ではありませんでした。
西暦679年には、そんな“さらら”をみて、天武は吉野に皇子たちを集め、天皇の下で助け合い、争いはしないと盟約を結び、長兄の草壁を実質的に後継者に指名しました。
“さらら”はほっとしました。
でも、大津皇子の実力は草壁より上で隠しようがありませんでした。
夫の快癒を願う
薬師寺は”さらら”が病気になったときに天武が発願して建て始めました。まだ建設中だった薬師寺に”さらら”は夫天武の快癒を願いました。
天武が亡くなる
西暦686年9月9日、体調不良だった天武天皇が亡くなりました。
悲しくてやりきれません。
もう、“さらら”と呼んでくれる人は居なくなりました。
ああ、これから誰を頼ったら良いのか。
そう、息子の草壁皇子が居る、と意を強くしました。
ただ、大津皇子が邪魔です。
25.焦燥と暴走
大津皇子を謀殺
西暦686年10月1日に天武天皇が亡くなり、後継者問題が急浮上しました。
夫天武にお願いして成った「吉野の盟約」で、草壁が後継者になっていましたが、二人を比べると自分が見ても、大津皇子の優秀さが際立っていたのでしょう。
天武亡き後、即位せずに称制を執る最高権力者にも関わらず、母”さらら”は焦りました。
なんと、この機会に、大津皇子を亡き者にするため、川島皇子に讒言をさせて捕らえてしまい、同月25日に大津皇子は自害させられました。
あっという間の出来事です。
“さらら”はこんなに無慈悲で凶暴な性格だったのでしょうか?それは、ひとえに草壁皇子への偏愛が元だったと言われていますが、どうだったのでしょう。
正に母鬼の暴走です。
則天武后(武則天)影響?
当時の唐は、唯一の女帝則天武后(武則天)でした。両国とも女性がトップです。
655年に則天武后は皇后になると、邪魔な前后たちを惨殺しています。“さらら”はそれを知っていたのでしょうか?
邪魔者(大津皇子)排除は当然のことと考えたのかも知れません。
“さらら”が即位したのも、690年で同じです。
”さらら”は則天武后との関係はどうなのか。
草壁皇子も死んだ
ところが、期待を背負わされた草壁皇子も、3年後、28歳(西暦689年)で亡くなってしまいます。30歳になれば天皇に即位できたのにと悔やむ“さらら”の姿が目に浮かびます。
哀れな母鬼
草壁皇子を亡くして、“さらら”の喪失感はいかばかりだったでしょう。
ようやく、母の盲目愛の愚かさに気づき、大津皇子への仕打ちを悔悟したでしょうか?
一途に大海人皇子を愛し、桑名で幼い皇子たちを守った自分を取り戻したのでしょうか?
いいえ、そんなにヤワではありませんでした。
「“さらら”はしたたか」
自ら即位、孫の軽皇子に望み
同年に自らが即位します。孫の軽皇子が天皇になるまで頑張ることにしました。
結局、大津皇子を少し悔やみ、草壁皇子の一生に無情を感じて、孫の軽皇子に望みを繋ぎます。
・・・我々現代人には、“さらら”の本心を理解できるでしょうか?
そして、国創りは継続しました。
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