第8章 即位して遺志を継続、でも後継者が不安
26.国造りに邁進する
今も続く即位儀礼 八八八・・・八ばかり
大津皇子を殺したのにそれにめげず、天武が亡くなってすぐに臨朝称制、即位せずに政務を始めました。正式に即位したのは、西暦690年です。その即位儀礼は良く準備され、初めて、天孫族を永続させるための儀礼様式を作り上げました。
“さらら”は天皇が天から降りてきたことを表す八角形の「高御座」に着座し、その前で、神祇官たちが大盾を樹て、天神寿詞を詠み、神器の天叢雲剣と八咫鏡を奉り、そのあとに、公卿たちが八開手を打ち、拝礼するという様式を作りました。
歴代大王で初めてのことです。
この儀式は、天神寿詞(大嘗祭で実施する)、公卿たちの八開手(現在伊勢神宮で実施中)を除き、令和まで続いています。
この様式を考案したのは、鎌足の跡を継ぐ中臣氏の氏上である神祇伯の中臣大嶋でしょう。
伊勢神宮「式年遷宮」、考えたのは天武、始めたのは“さらら”
自分は天から降りた正統な支配者である、天照の継承者であると宣言しました。
その天照は、崇神が笠縫邑に移してから倭姫により伊勢神宮に祀られていました。天武はこの天照の永続性を担保するため、式年遷宮を考案していました。実際にそれを実行したのは、“さらら”です。
20年毎に正殿他14ある別宮の全ての社殿を造り替えて神座を遷す儀式です。
目的は何でしょうか? 20年は当時ではだいたい一世代の間隔です。
天照の威光、尊さを20年毎にリマインドさせる効果と継続することで天孫族の永続性を担保するのです。このシステムはずっと続いており、2013年に62回目が行われ、TV中継も入り関心度も高まりました。
とてもよくできたシステムです。壊された旧殿の木材は各地の神社に配られて、各地ではありがたく貰い、地域神社で活用しています。各地への広がりも考えていたとすれば流石です。
新益京(藤原京)を造りたい
“さらら”は即位後、祖母斉明が活躍した岡本宮に入ります。斉明は吉野宮(宮滝)を造営して水の祭祀を行い、飛鳥では大規模運河工事を行うとともに亀形石造物で祭祀を行いました。“さらら”は土木建築が社会に与える影響を学び、水の祭祀を通して神仙思想にも造詣が深くなりました。
天武と“さらら”は、唐の都に匹敵するような律令制に相応しい新しい都を造りたいと考えていました。新たな都、新益京(藤原京)は、飛鳥の北方、大和三山に囲まれた地に造営され、神仙思想、風水を取り入れ、隋、唐の都を模倣して作りました。
天皇のいる宮殿を中心に、貴族、官僚、寺院、庶民なたちを配置しました。又、大和川経由で大阪湾に通じる運河を整備しました。
これで、唐と渡り合える外観が出来ました。
「日本」は大規模な工事が行える力を持った政治体制であることを対外的にアピールし、特に唐に対し主権国家であることを示しました。
日本書紀編纂を加速する
即位の翌年、691年に、有力豪族たち(18氏)にそれぞれの氏族伝承の記録提出を命じています。日本書紀のネタにしました。そして、それらを破棄したようです。
18氏は次の通りです。
大三輪、雀部、石上、藤原、石川、巨勢、膳部、春日、上上野、大伴、紀伊、平群、羽田、阿倍、佐伯、采女、穂積、阿曇
“さらら”は国造りに邁進する、でも不安
天武と夢見た「日本」の創造は進みました。現人神(天孫族)の下に、自然信仰を象徴する国津神(大国主他八百万の神々)が従い、仏教を利用して人の道(倫理性)を担保する社会システム(精神支配)を作り上げつつありました。
それを推進する原動力は言霊と修験者たちです。
縄文より続く自然信仰と祖先崇拝、そこに国生み、高天原、天孫伝説などを被せ、各地の伝承を取捨選択しながら、現人神をトップとする物語を上手くまとめました。
よくぞここまで創り上げたものだと感心します。
現実世界では、半島、大陸との対外関係を整え、国内では律令政治を推し進めました。
一途に天武と国創りに突き進んできましたが、孫の軽皇子にどう譲ればよいか、どのように永続性を持たせるか問題でした。
自分の後継者問題では不安でいっぱいです。
27.父子直系相続を根幹とする
後継争いを悔悟?
当時は、乙巳の変のような政権内での権力闘争、有馬皇子謀殺などが続き、又、”さらら”自らが手を染めた大津皇子謀殺などの大王の後継者争いは、よくある、当たり前の出来事でした。
しかし、時間の経過とともに、何故大津皇子を殺してしまったのか、なぜ草壁皇子は長生きできなかったのか、それは自分の責任で、これからの子孫にはそれを繰り返さずに自分の皇統を継続させたいと思うようになったのでしょうか。本当にこのように現代風に考えたかどうかは判りません。
しかし、何とか、孫の軽皇子に継がせたいと思っていました。結局、権力継承は最高権力者しか行えないと策を巡らしました。本当に自分勝手なのでしょう。
父子直系相続を創造する
身内の間で、その周囲での血を血で洗う権力闘争を静め、天孫族の皇統を守るために、天皇後継者を決める基本は、父子相続であるとしました。それを天皇家だけではなく広く豪族たちにもわからせ、社会を安定させようとしました。
ここでは国全体のことを考えました。
当時の天皇在位は約10年間で、兄弟相続が基本でした。
父子相続を周知させるため、16代以前の記録が曖昧なことを利用して各大王の在位年数を延ばすの等の改竄を行い、大王家(天皇家)は父子直系相続が基本だったとしました。
欠史8代と言われる大王たちは、約70~80年間(西暦280年頃から350年頃迄)を4~5世代で継いでいました。しかし、日本書紀では、辛酉革命に則って神武即位をBC660年としたために、続く千年近くを8代で相続するという形を取り、大王たちは途方もない長生きになりました。
“さらら”が敷いたレ-ル
天皇後継者のルールを父子相続としました。”さらら”は、これで国内体制づくりと合わせて天孫族統治の基本は出来たので、独立国家「日本」はスタートできるとほぼ満足したでしょう。
孫の軽皇子は後顧の憂いなく任せられるほど育っていませんが、この基本体制と軽皇子が天皇とするのに協力させた不比等に後継問題のかじ取りを任せます。
不比等はそこを利用して藤原氏の世界を作り始めます。
28.不比等登場
行政官不比等
天武政権の下で、草壁皇子に仕えるようになっていた不比等が登場します。不比等はとても優秀であったと伝わります。“さらら”の信頼を得て、相談者から差配するまでに至ったとしてもあくまでも行政官です。
“さらら”に取り入る
“さらら”が天皇に即位したと同時期に判事に任命されています。(西暦689年)正に、“さらら”に取り入ったと考えてよいでしょう。草壁皇子から、上皇、軽皇子・文武に至る過程で、不比等は皇位継承と藤原氏勢力拡大に力を発揮しました。
草壁の佩刀を受け渡す役を仰せつかりました。
藤原氏が大事
しかし、天武、持統期の国家構想、記紀の編纂などには関わっていたとは思えません。ひたすらに藤原氏第一主義を貫きました。元明、元正天皇以降は政策策定は大いに関わり、一族を后とするのに成功しました。
父鎌足の血を引いて、策謀の限りを尽くし始めます。
29.軽皇子即位、”さらら”は上皇へ
軽皇子は直系父子相続で天孫相続
草壁皇子の後継者を選出する会議で、異論を唱える弓削皇子を、葛野王(大友皇子の息子)が軽皇子は直系であり相続に相応しいと一喝したとしたと伝わります。
これは“さらら”のやらせでしょう。
そして、軽皇子への相続は、「草壁皇子の佩刀」を草壁皇子に見做して(形代、依り代)、直系父子相続であるとしました。更に、自らを天照に見立てると天孫相続になります。
不比等が佩刀を受け渡していますので、”さらら”の信頼を勝ち取った成果です。
上皇“さらら”は腕を振るう
“さらら”は孫軽皇子に譲位して上皇となりましたが、まだ、政権を取り仕切っていました。
孫の軽皇子へ皇位を継がせることは、先祖天照から孫の瓊瓊杵に継がせたことと同じになるのです。
軽皇子への継承を正統化するために、天孫神話を創ったともいえるかも知れません。
ただの偶然の一致なのでしょうか?
父子相続の原則を守るため、草壁皇子の佩刀を「草壁皇子の依り代」として、一旦不比等に渡し、軽皇子が即位したときにその佩刀と渡すことで、草壁皇子から軽皇子に譲位されたように装いました。佩刀は天皇の証(依り代)でした。その後、正倉院に収められたとありますが、その後取り出されたようで現物は確認できていません。(黒作懸佩刀)
これを機に、不比等は更に権勢をふるうようになります。
「”さらら”は、孫の”文武”に託す」
軽皇子即位
軽皇子が即位しましたが、まだまだ伝え教えることがたくさんあります。文武と一度だけ吉野宮滝を訪ねました。ここで、何を語ったのでしょうか?
文武天皇としての大きな事跡は伝えられていません。
皇后は藤原宮子で不比等の長女です。
“さらら”がやるべきことはあと一つになりました。
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