第9章 吉野宮滝から高天原へ
30.命溢れる熊野
熊野は自然信仰の聖地
http://熊野速玉大社熊野は山に囲まれ水が豊富で、命が溢れています。日本列島に広く根付いている自然信仰の象徴の地であり、熊野は神武以前から、出雲日本海勢力で発展した“鉄農業力と銅鐸祭祀”の社会システムが浸透していました。
出雲神話でも木の国と呼ばれています。
国津神(八百万の神々)が溢れていると言ってもいいでしょう。
熊野三山の自然信仰と主祭神の関係は次の通りです。
熊野本宮大社:熊野川と家津美御子大神 (素盞鳴尊)
熊野那智大社:那智の滝と大己貴(大国主)
熊野速玉大社:磐座信仰(神武が登ったゴトビキ岩)
と熊野速玉大神(伊邪那美)、梛の木(伊弉諾))
三山で、川、滝、磐座の自然信仰三点セットが揃います。
伊勢神宮に天照を祀る
4世紀の垂仁期に倭姫が天照を伊勢神宮に祀ったと伝わりますが、その後、7世紀天武期まで目立った動きは記録されていません。
伊勢神宮の東方海上、熊野灘から朝日が昇り、背後の五十鈴川からは命の源の水が流れます。常世・黄泉の国ともつながるこの地は天照を祀るに格好の地でありました。
又、壬申の乱のときに、北方にある現四日市市大矢知町の迹太川(とおがわ)のほとりで、大海人皇子と”さらら”たちは天照に戦勝祈願したといいます。
天武と“さらら”は、現人神による天孫族支配正統性を確かなものにするため、廃れていた伊勢神宮の祭祀を国家レベルに引き上げました。
そして、前述のように20年毎の式年遷宮を定め、天孫族の永続性を担保しました。
伊邪那美は古事記では東出雲に葬られていますが、日本書紀ではここ熊野有馬の地がお墓になっています。
熊野灘沿いにある「花の窟屋神社」です。崖の下に小さな洞があり、そこに葬られたとされています。目の前は海です。
熊野灘の彼方には、常世・黄泉の世界が広がり、熊野は自然信仰の聖地なので、伊邪那美神話の舞台として格好の地です。
夫の伊弉諾の埋葬地は判然としませんが、熊野川河口に梛の木を植えて伊弉諾に見立てていると思われます。神武はゴトビキ岩に登り、熊野山地を越えて、太陽の黒点を表す八咫烏に導かれて進みます。
古事記に伊邪那美の墓は出雲とされていても、天孫族正統性を一番に訴える日本書紀ではそれ無視して、命溢れる熊野に、天孫族を集めたかったのでしょう。
これで、伊邪那美、伊弉諾、天照、神武が熊野に揃います。
山の民と海の民が交わる命の原点
山の民は、那智の滝を見ればその荘厳さに打たれ頭を垂れ、山火事を起こす雷には畏怖します。
熊野灘は、沖縄、南九州から始まり、東海地方を経て房総、常陸の国々までつながる海の路の半ばにあり、海の民の中継地点でもあります
此処熊野で、山の民と海の民が交わり、命の原点となっています。
因みに、徐福が熊野に上陸したという話が伝わり研究が盛んです。
熊野を訪れた“さらら”と大海人皇子
熊野へは、白浜北の田辺から中辺路を通り熊野(現本宮大社付近)に着きます。そして、熊野川沿いに下り那智の滝があり、熊野灘に面した速玉大社、ゴトビキ岩(現神倉神社)に至ります。
“さらら”は大海人皇子と結婚したのち、斉明が好んだ南紀白浜経由で熊野を訪れて、命あふれる熊野を実感し、熊野灘の彼方に常世・黄泉の国を見たのでしょう。そこで二人は仲良く過ごしつつ、様々な啓示を受けていました。
31.吉野宮滝での懐いと想い 行幸31回
何しに行った?
吉野行幸の記録は、応神から始まり雄略、斉明へと続いています。“さらら”は即位後31回も訪れました。
天皇即位以前にも、“さらら”は人生で重要な節目を吉野宮滝宮で過ごしました。斉明に吉野宮に連れられ、水の祭祀を実感した時、天武と大津宮から逃げのびて半年を過ごし、反旗を翻した時、皇子たちと盟約した時です。
その時々にも宮滝の流れと吉野の山々を見て感じる処はあったでしょう。
即位後に改めて、その感動を味わい将来に想いを馳せるため、吉野を何回も訪れました。だいたい、一回当たり一週間前後です。
ここで何を行っていたのでしょうか?
歴代大王も訪れた、そして祖父の所領
・吉野の妹山の麓には大名持神社があり、妹山を神体山とする自然信仰を元に創建されました。大己貴神が祀られているというのは、大国主を祀る大神神社と同じように、この吉野は出雲の影響を色濃く受けていた土地です。
・神武はイヒカ(国栖人)を味方に付けて、宮滝付近から奈良盆地に攻め入りました。
・応神が吉野行幸のおりには地元民から国栖奏が奏され、この国栖奏はのちに大嘗祭などの朝廷儀式に重要な役割を果たすようになっています。吉野町南国栖の天武を祀る浄見原神社では毎年国栖奏が奉納されています。
・雄略が吉野宮に行幸した際は、「神である私は・・」から始まる歌を乙女に歌っています。
・天武は、孝安6年(西暦323年頃)創建と言われる吉野山の勝手神社で、故事を偲び舞を躍らせた場所です。大嘗祭、新嘗祭で踊られる五節舞につながっています。
このように、吉野はずっと大王たちの関係を保ち、特に歌、舞などが今日まで残っています。
・宮滝から北西約5kmにあり、南下に吉野川を見下ろす現在の世尊寺は、飛鳥時代では吉野寺、奈良時代には比曽(比蘇)寺と呼ばれていました。吉野寺は古人大兄皇子が蘇我氏の氏寺として造りました。乙巳の変後、出家して隠退したのは吉野寺でした
その後、古人の後継いだのは、“さらら”の祖父倉山田石川麻呂です。
つまり、祖父の死後、吉野寺一帯は“さらら”に継承されていたと考えてよさそうです。
九州高千穂と酷似する
先祖神武が日向から東に向かい、吉野川を遡って奈良盆地に入ったことは伝え聞いていました。ここ吉野で方向を変えて宇陀方面から奈良盆地を攻めたのです。
宮滝の自然気候は九州の高千穂に酷似しています。高千穂峡を流れる川と宮滝の吉野川の流れ、年間の平均気温、平均雨量、標高はほぼ同じです。宮滝から南に仰ぎ見る吉野の山々を見るにつけ、その先にある熊野にも懐いを巡らしました。伊邪那美を葬った地でもあります。
啓示を受ける
“さらら”は宮滝で夜明けに、吉野の山から昇る太陽を仰ぎ見ながら水の祭祀を執り行っていると、高千穂の峰降臨した瓊瓊杵尊がここ宮滝にも降りてきました。そして、神武が東征した際の戦い厳しさを懐い、軍勢を率いる神武の姿が重なりました。勝利に導く力強さと神々しさを見たのです。
神武東征 熊野ルートを創作する
そうだ、神武は、命溢れる熊野を経由して困難を乗り越えて、ここ宮滝に降臨して奈良盆地に攻め入ったことにしよう。野蛮な九州人を、奈良盆地を正統に支配する現人神にしようと啓示を受けました。
そして、この話は、日本書紀では短い記述の中に凝縮して記載されています。神武記の10%強を占めるだけですので、後付けの話だろうと容易に推測できます。
物語は、実際には紀ノ川を遡った、紀伊半島を遠回りして命溢れる熊野から山々を越えて青が峯からこの宮滝に降臨したことにしました。瓊瓊杵尊の高千穂降臨を真似しています。
神武は熊野でゴトブキ岩に昇って天の啓示を受け、熊野の浜で女賊神の毒気で死にますが、天照の命を受け武御雷が高倉下経由で「ふつの御霊剣」を与えて再生します。そして太陽黒点を表す「八咫烏」に導かれることにしました。
役小角と神仏習合を進める
宮滝では、金峯山で修業していた役小角に度々会い、水の祭祀を行うとともに仏教との習合を広める方法を探っていました。
役小角とは斉明が水の祭祀を行ったころから知り合いで、全国を巡る役小角の情報を活用していたとも伝えられています。
役小角が修業した神仙思想(道教)は自然信仰と相性が良いです。神仙思想を通じて自然信仰(国津神の大元は大国主)と仏教を習合させていきました。修験道の始まりです。
自然信仰に現世利益を求める道教、仏教が習合し、天津神がそれらを束ねるという形を作りました。
天武と“さらら”は仏教を信仰し、天武は“さらら”の病平癒(現世利益追及)のため薬師寺創建を発願しましたが、天武存命中には完成せず亡くなった後に、伽藍が完成しました。奈良時代から平安時代にかけて、神仙思想を仏教に応用する神仏習合が進み、有力な神社までが国家仏教の体制に組み込まれていきます。
そのきっかけは、この宮滝での役小角との邂逅にありました。
役小角は金峯山から熊野の山中で修行し、そこで得た呪術力で、吉野周辺の民衆に雨ごいや病い退散などの祈祷も行っていました。後に続く私度僧が増えて神仏習合の浸透につながりました。
雨乞いの踊り(なもで踊り)は吉野国栖、丹生に残っています。奈良万葉文化会館の玄関先で、皇極天皇の雨乞いを再現した「なもで踊り」が披露されていました。
※「なも」は南無、「で」は出る転じて天から雨が出る(降る)の意です。
天武との構想を総仕上げ
既に“さらら”と呼んでくれる人々は亡くなり、吉野川の流れと山々に垣間見る日の光を浴びながら、最愛の天武を懐い出していたことでしょう。あまりにも懐い出が多い場所です。
でも、涙にくれていたとは思えません。ここで夫天武と構想した「日本」創造の総仕上げを行っていました。
「自らを天照に重ね、“さらら”から“廣野”へ」
もう、“さらら”とは呼ばれない
生まれてから、身内からは“さらら”、周りからは、ただ「姫、皇女」と呼ばれました。
成長期は、「鸕野讚良皇女」と呼ばれていましたが、斉明、大海人皇子は、“さらら”と呼んでくれました。
結婚して皇后になっても、夫だけは“さらら”と呼びます。他の人は「おきさき」です。
即位してからは、「帝(みかど)」と呼ばれ、誰も“さらら”と呼びません。
譲位してからは、「上皇様」、誰も“さらら”と呼べません。
亡くなる前に、自分で、諡号を付けました。
”さらら”は、自分を「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)と名付けました。これは日本書紀に記載されています。
死後の720年に名付けられた説もありますが、生前に自分で名付けたとの説をとります。
しかし、火葬の際は、「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と付けられてしまいました。続日本紀に記載されています。
高天原ではなく大倭とされたのは、“さらら”にとっては心外でしょうがもう墓の中でした。
“さらら”から高天原廣野姫天皇になる
「高天原」は、天照がいる天上のことです。
「廣野」は、“さらら”が育った讃良郡の広い野原(牧場(まきば))を表しています。
この意味は、天照(卑弥呼)に自分を重ねて、天上(高天原)に居る“さらら”(廣野姫)となり、正に天孫族のトップであると宣言しているようです。
最愛の天武に呼ばれていた“さらら”を“廣野”と表現を変えて諡号に入れました。
そして、壺に入って、最愛の天武の横で永い眠りにつきました。
さて、“さらら”の想いは、我々現代人につながっているでしょうか?
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