第10章 言霊で天皇の権威を国々に広げる

第10章 言霊で天皇の権威を国々に広げる
柿本人麻呂と原万葉集を編纂
天孫族の統治正統性を広めるため、宮廷歌人の柿本人麻呂に天皇賛歌の歌と歴代大王などの歌をまとめて初の勅撰和歌集である万葉集を編纂したと考えます。
万葉集巻1の1から53番目までの歌をまとめ、原万葉集と言われています。

正史である日本書紀には、天孫族の統治正統性を裏付けるストーリーを載せています。
日本書紀の内容を広く知らしめるため、歌う言葉を通じて広めるというコンセプトを基に、和歌集を編纂しようとしていました。
原万葉集は、日本書紀成立の一年後、西暦721年に成立したとされますので、タイミングは合っています。

原万葉集は大王・天皇を現人神と讃える
原万葉集は万葉集の1~53番目までの歌集ですが、大王、天皇を神とたたえる歯の浮くような歌が多くあります。
又、現代人から見るとあまりにもへんてこな歌を平気で載せています。

日本書紀で天皇の統治正統性を訴えていますが、その肝である「現人神」のパブリシティを、勅撰和歌集にまとめた発想は図抜けいると言っていいでしょう。
これは、天武か、“さらら”か、人麻呂か、又はその合議で発想されたものでしょうか。

舒明と倭健は国見して歌った
祖父欽明は香久山で国見をしたときに、やまとの国を褒めたたえています。
その舒明から約250年遡った倭健も、“さらら”が育った牧場にちかい平群の山(生駒山)で思国歌(くにしのびうた)を歌っています。
倭健は全国平定の旅の終わりに鈴鹿の山で亡くなりますが、その時に「白い鳥」が大和琴弾原(ことひきはら)を経由して古市に飛来し、また埴生野(はにゅうの)の空を羽を曳くように飛び去った飛び立ったという故事があります。羽曳野の由来になっているように平群の山々(生駒山)に向かっています。

“さらら”は香久山で、舒明と倭健に重ねた
”さらら”が天皇に即位した後、歌った有名な歌がありますが、意味がよくわかりません。
「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山」ですが、一般的には、夏の到来を詠んだもので、初夏の緑と白い衣のコントラストが鮮やかに描かれている、という解説がされます。
しかし、どうもしっくりきません。香久山に誰が白い衣を干したのでしょうか? 香久山は神聖な山で、どう考えても衣を干すわけはないでしょう。
いったい、白い衣は何を指しているのでしょうか?
そして、何故、感動したのでしょうか?

ここでは次のように解釈します。
“さらら”は、新しい宮殿(藤原宮)が出来上がったときに、香久山を仰ぎながら祖父舒明と倭健の国造りを懐い出します。

初夏のすがすがしい風景の中、この辺りは池が多いため鷺が飛び交っていました。
香久山に降り立ち木の枝に止まっている白い鷺たちを、初夏の風に翻る「白い衣」と見立ています。
白い鳥は倭健の象徴です。倭健の平群での国見の歌を思い出し、更に祖父の舒明が香久山で歌った歌に重ねました。新しい宮殿の美しさと夫天武との国造りに想いを馳せて、香久山に国の安寧を託したのではないでしょうか。

「言霊で広めて心に残した」
飛鳥京も藤原京も今は廃墟ですが、大神神社には参詣者が絶えず、伊勢神社の式年遷宮は現在も行われ、祝詞(詔戸言、諄辞)が境内に響いています。
そして、1300年以上も前の”さらら”の歌は、文字ではなく言霊として、みんなの心に残ります。
”さらら”は今も自分の歌を歌われ、自然信仰とともに天皇制の社会が続いていると知ったら、どう思うでしょうか?
「してやったり」とほくそ笑んでいるかも知れません。

少女として、妻として、母として、祖母として生きた女性の一生に興味は尽きません。
我々、現代人は、”さらら”が標した道を、歩み続けるのでしょうか?

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