神武は出雲に行った 安芸埃宮(えのみや)編

でも、御朱印はある

神武が最初に立ち寄ったのは安芸
・安芸(広島)の多気宮、埃宮(えのみや)に、7年間(記)、又は3ヶ月程度(紀)
古事記は編年体で書かれていませんので、いつからいつまで滞在したのかは判りませんが、滞在期間は表記しています。春秋2倍暦を用いていたとしても、ずいぶんと長く安芸に滞在したものです。
その地に上陸して、各地を回ったり、彼の地の氏族と何らかのやりとりを行っていた可能性があります。
表題のように、安芸から出雲を往復した可能性を探ります。

安芸多気宮(埃宮)は二箇所ある
・内陸部(安芸高田市)の埃ノ宮神社(宮ノ城跡)。 江の川沿いの高台にあります。
江の川(ごうのかわ)は中国地方で最大の流域を誇り、船運も盛んでした。
・沿岸部(府中町)の多気神社。 当時の海岸に面した高台の上にあります。

内陸の埃宮に「船越」して行った?
沿岸部(府中町)に「船越」という地名が残っています。沿岸部ので船を運ぶ(越す)ような場所はありません。内陸の埃宮まで、船と陸路を組み合わせて進んだときに、船を人力で運んだことを「船越」と表したのではないでしょうか?
日本書紀は後述のように沿岸部にだけ滞在したことにしましたが、「船越」という名前だけが残って、その地名となったと思われます。

内陸の埃宮滞在したのは、出雲を訪ねるためか?
古事記の通り阿岐(安芸)に7年間(若しくは3年半)も滞在した理由は何でしょうか?

内陸の埃宮の脇を流れる江の川(ごうのかわ)は、複雑に曲がって流れていますが、四隅突出墳丘墓(矢谷墳丘墓)がある三好を経由して日本海に流れます。
四隅突出墳丘墓は出雲の西谷墳墓群が有名ですが、三次にはより古いと思われる陣山墳墓群があります。弥生時代後期には山陰(日本海側)と山陽(瀬戸内海側)の間で人々が交流していたと考えられています。また、舟運は古くから行われていたのでしょう。(Wikiより)

安芸に上陸した後に、内陸の安芸髙田付近に行き宮を構えて、三次を経由して出雲まで足を伸ばしていた可能性があります。船で日本海に出たか、途中で陸路に切り換えたかは判りませんが。
そこで、神武がこれから征服しようとしている奈良盆地での統治方法を含めた事前ネゴを行ったのでしょう。
つまり、安芸髙田の埃宮-三次-出雲のルートは確実にあったので、そのルートに沿って動いたのでしょう。

出雲とは戦わず、お嫁さんは大国主系
出雲と交渉していた傍証となるのは、神武が奈良盆地に進軍した際に、既に進出していた出雲勢力と戦っていないことです。事前に交渉(言向け和す)を行い、戦わずして奈良盆地を征服したのだろうと想像します。
更に、神武のお嫁さんは出雲系であり、綏靖、安寧も出雲系の皇后であることは、出雲勢力との結びつきの強さを示唆しています。

日本書紀はスルーして、沿岸部に短期滞在とした
日本書紀では11月9日に筑紫の岡水門(おかみなと、岡湊)を出発したあと、12月27日に広島(安芸国)埃宮(えのみや)に着きます。翌年3月には吉備に着いていますので、安芸には最大3ヶ月間の滞在となり、3ヶ月では出雲を往復出来ません。
沿岸部の埃宮には、立ち寄っただけと記載したと考えられます。
日本書紀では、神武は天孫族として勇猛果敢な戦士であることを強調していますので、出雲と事前交渉していたなどとは記述できなかったと想像します。
なので、沿岸部の埃宮に滞在したことにして滞在期間も短くしたのではないでしょうか?

しかし、八岐大蛇は安芸から出雲に向かった
日本書紀の八岐大蛇伝説では、素戔嗚は安芸の国の可愛(えの)から出雲に向かう途中に、八岐大蛇を退治したとなっています。このように、日本書紀でも可愛から出雲への道は存在していたことが窺えます。
古事記では神武が出雲まで足を伸ばしたことが暗示され、日本書紀は素戔嗚が安芸から出雲に行って途中で八岐大蛇を退治しています。
いずれにしても、安芸と出雲がつながっていたのは確かでしょう。

さて、どちらが本当に訪れた場所なのでしょうか?(内陸の安芸髙田市か、沿岸の府中町か?)
行ってみました。

埃宮の意味は?
ところで、日本書紀では「えのみや」を何故、「埃宮」と表現したのでしょうか?
「えのみや」の「え」は、瓊瓊杵のお墓を可愛山稜(えのみささぎ)の「え」であり、素戔嗚が八岐大蛇を退治したときの出発地(可愛)ではないでしょうか?
「埃」は”あい”とも読みますので、「埃」=”あい”=「愛」で、可愛宮、えのみや、となります。
書紀を書いた人たちが、「可愛」を「埃」に変えて、瓊瓊杵との関連を暗示したのでしょう。
内陸の埃宮の脇を流れる「江の川」は現在”ごうのかわ”と発音しますが、別名は「可愛川」です。正に、「江」=「可愛」=「埃」に通じています。

沿岸部埃宮の本家争い
沿岸部の埃宮の場所はどこだろうというのは江戸期以降ずっと争いの種になっていました。
平安時代の「延喜式」に安芸国の名神大社三社の一つとして多家神社の名が記され、江戸時代には南氏子(松崎八幡宮)と北氏子(総社)に分れ、互いに多家神ないし埃宮を主張して論争対立が絶え真線でした。明治6年になって、松崎八幡宮と総社を合わせ、現在の社地(ふに多家神社を復興したとあります。(由緒書きより)

多気神社(府中町)

 

埃ノ宮神社(安芸髙田市)

神武は出雲で交渉した(言向けや和した)

 

 

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