熊野三神は、海、滝、川などの自然信仰に結速玉と結びつきました。
縄文には、本つ神、地母神がいました。稲作とともに新しい神(弥生の神=結速玉)は新来の神、今来の神です。
有馬、熊野川河口部から上流に広がる地域に広がります。

熊野速玉大社は「海」
・河口部にはゴトビキ岩を対象としていた縄文期からの信仰がありました。
・大岩は、海から目立ち、海の民の航行の目印です。
・有馬で生まれた結速玉の神格は、熊野川河口(現新宮市)辺りにも広がり移ってきました。
・この河口部に速玉之男神(のちのイザナギ)が祀られました。紀元前5世紀ごろでしょう。
・神道形式になるのは、景行56年の建立ですが、実際にはAD4世紀末ごろではないでしょうか。
- 社殿が建てられたのは景行56年
- 速玉之男神 イザナギ(凪を誘う)
- なぎの巨木 凪を願う人々の象徴
- 樹齢1000年
・熊野川が有馬とゴトビキ岩を隔てており、双方は船で行き交わざるを得ませんでした。
・熊野速玉祭(御船祭)」は1000年以上の歴史を持つ祭りで、「御船島(みふねじま)の御船祭」は、9隻の早船が速さを競い合います。
・この祭りは、河口を行き交う人々と黒潮に乗ってくる海の民の生活を元に速玉之男神への奉納を表しているのでしょう。
・速玉は海の彼方から波を切って勢いよくやってくるイメージもあり、熊野速玉大社の速玉之男神は海神族のシンボルです。のちにイザナギが被さってきます。
・速玉大社には夫須美大神(のちのイザナミ)も祀られていましたが、のちに別けられたという説もあります。
神倉神社は「大岩」
・ゴトビキ岩(神倉神社)は速玉大社と不可分の信仰の対象で、500余段の階段(岩楯)を登るとこの磐座に辿りつきます。速玉大社の摂社です。
- 500余段を登る
熊野那智大社は「滝」
・那智の滝は熊野川から一つ南の那智川途中の、高さ133mの大滝である。那智の原生林から突如轟音とともに流れ落ちる瀑布は自然信仰の象徴です。
・永遠に続くと思われる瀑布は、生命の循環、力強さを感じさせずにいられません。
・思わず手を合わせるのは自然な所作です。
・海の民として那智の滝は航行の目印であり、また、海と川はつながり生命循環を司る大神として信仰していました。
・那智の滝と有馬の神格(結速玉)が同一視されて、ここには生命を生み出す女神(有馬で生まれた結速玉)が熊野夫須美大神(のちのイザナミ 五穀を生み出した)として祀られました。
- イザナミを祀る
- 那智大社拝殿
- 那智の滝 遠望
- 那智の山
青岸渡寺は「観音発祥」の地
・昨年5月から始めた西国三十三か所観音巡りは、1番札所青岸渡寺を参拝して満願しました。
・由緒を調べると、仁徳天皇の時代(AD5世紀)に、インドから渡来した僧・裸形上人(らぎょうしょうにん)が、那智の大滝で修行中に観音菩薩を感得し、草庵をむすんで如意輪観音を祀ったことに始まるとあります。
・やってきた道筋は、インドから江南辺りから南西諸島を経て薩摩半島に辿りつきした。日向を船で出発して熊野にやってきたのでしょう。半島を経由して来たのかも知れません。
・百済から仏教がヤマト王権に伝わる前に、既に来ていたとは驚きです。
・約200年後の推古天皇の時代に、堂宇が建立され、大和から生仏上人が入山して如意輪観世音を安置しました。
・さらに平安時代に花山院が熊野籠りするほど、熊野は信仰の地となっていました。
・西国三十三か所観音巡りの創始者は、 奈良時代の「徳道上人」ですが、現代の巡礼の形を築いたのは、花山院でしょう。
熊野本宮大社は「森・川」
・熊野川上流域の中州にあった熊野本宮大社には、縄文期より熊野川そのものを「熊野にいらっしゃる」という意味の熊野坐神として信仰していました。
・とうとうと流れる川、尊い水は、生命の基本で、循環する命(血)につながります。
・雨が原生林を通って流れを集めた大河(熊野川)は熊野灘に至り、命の循環に通じるのです。
・有馬からは熊野古道を通って、直接本宮大社とつながります。結速玉の神格は直接つながったと思われます。
・本宮大社では、結速玉を家津御子大神として祀るようになります。後年、家津御子大神は後に素戔嗚とされ現代に続きます。
・つまり、古事記で出雲から木の国にやってきたとされる素戔嗚が、木の国(紀国)であるこの熊野で大神として祀られたのです。
・那智大社の野夫須美大神がイザナミに当てられ、速玉之男神がイザナギとなったのと同じ時代でしょう。
・家津御子大神が素戔嗚とされるのは、記紀の時代頃ではないでしょうか。
熊野三神から熊野三山へ変貌する
・8世紀に修験道が広がり、平安時代の10世紀からは浄土信仰の聖地となっていきます。
・地元神が発展した熊野三神から、仏教、修験道と混然一体となった熊野三山の世界が広がっていきます。神仏習合の典型的な始まりです。
・奈良時代に役小角が始めた修験道は、熊野山々と相性が良く全山に広がりました。熊野大権現として知られるようになりました。
・平安時代になると浄土信仰が篤く、花山院が熊野に籠り、後白河は何と31回も行幸しましたが、熊野が浄土そのもの、熊野灘の彼方には常世が広がるなどの信仰が隆盛しました。因みに後白河は京都に熊野神社を建立したほどです。
・「補陀落渡海」も行われました。現代の我々にはなかなか理解しづらいですが、密閉された船に坊主が乗りお経を唱えながら、西方浄土、常世を目指すという教えを実践しました。でも、途中で帰ってきて処罰(殺された)例もあるようです。
・室町から江戸時代にかけて、「熊野比丘尼」という女性たちが、『熊野観心十界曼荼羅』という絵図を使って地獄・極楽の様子を語り聞かせる「絵解き」を行いながら全国を回り、熊野信仰(熊野三山)を全国に広めました。
・全国に熊野信仰が広がったのは、やはり、自然信仰を元にしており、多くの人々の心にある自然への思いが共鳴したのだと思います。
番外:徐福がやってきた
・時は少しさかのぼりますが、紀元前3世紀に大陸から徐福がやってきた、という説がありあちこちにその事績が残っています。
・熊野川河口部には阿須賀(あすか)神社があり、主祭神は事解男命(ことさかおのみこと)です。神話においてイザナギが黄泉の国から逃げ帰る際、黄泉平坂(よもつひらさか)で唾を吐き払った際に生まれた神となっています。この神社は熊野では随分と後の時代にできている可能性があります。
・この神社は熊野速玉大社と直線距離で1Km強なので関係も近く、摂社と言ってもよいです。
・神社裏手、熊野川河口を背に標高50m弱の小高い山(丘)がり、蓬莱山とされているのは、後付け感満載でしょう。
・さて、本当に徐福がやってきたのでしょうか?
・でも、その時代BC3頃に神仙思想が列島に入ってきたのは事実なので、徐福ルートと北部九州経由の両方という見方もできます。
- 正面
- 裏は「蓬莱山」
- 縄文から信仰対象
- 徐福の碑
- 境内に弥生住居跡
・また、河口には徐福上陸の碑もありますが、これは近世以降に作られたと思われます。
・さらに、阿須賀神社から300m南西には徐福公園がありますが、これは近代の作で、中日中国大使が奉納した碑もあります。
- いかにも中国風の正面
- 記念植樹は中国大使
- 太平洋岸に上陸しただろう
- 墓があるのはここだけ
- 徐福の墓は江戸時代
・さて、徐福が新宮市辺りにやってきたのは真実か?修験道以降(8世紀)に広がったのか?
・でも、江南から海の道をたどると熊野に至るのは自然ですので、具体的な事績は確認できていませんが、紀元前3世紀に徐福はやってきたのでしょう。
・当時の列島には、北部九州には銅と鉄が半島経由でもたらされ、大陸の技術、文化もやってきています。なんでも、徐福からとは断言できませんが、海の民へ大きく影響したのではないでしょうか。
熊野の神仙は徐福から、修験道に影響
・徐福は秦の始皇帝から命令されて不老不死の薬を求め当方に旅出たとあります。
・熊野の圧倒的な自然循環とその自然信仰は、神仙(仙人)が持つ不老不死の概念は相いれなかったのでしょう。列島人(倭人)は生命は循環するとしていました。
・ただ、熊野を深山幽谷のような神仙となぞらえて、自然信仰に論理的背景を加えることにはなりました。
・例えば、水は龍となり、全国各地に龍神信仰となって広がっています。
・神仙が示す宇宙観を元にした神話は後の世に受け継がれています。
・宇宙観を一言でいえば「八」であり、「八」は今日でもあらゆるところで重要視されます。
神武が上陸した、佐野王子跡
皇紀2600年記念事業の一環として神武が熊野に上陸してた跡はどこかと特定した。
それが、佐野王子跡です。並んで建っています。
上陸してゴトビキ岩に上り天命を受けたと伝わりますが、後付け物語なのでしょう。
神武東征の事績は各地に残っています。大体回りました。
- 右には佐野皇子跡神武上陸記念碑
- 神武顕彰碑
- 左は神武顕彰碑
- 佐野王子跡
二兄弟が祀られる、浜王子跡
神武の兄弟が祀られ、熊野古道の王子となっています。
兄の稲飯命(いないのみこと) と 三毛入野命(みけいりののみこと)が熊野灘での荒海を静めるため身を投げ出したとあります。
ナガスネヒコとの戦いで兄を失い紀の川河口で丁寧に葬っているの比べ、ここで二人も亡くしたのに2600年の顕彰碑だけというのは、長年、重要視されてこなかった。実際のことではなかったということなのでしょうか?
黒潮に乗ってきて、潮岬付近は荒れた海の難所であるのは有名です。1890年に起きたトルコ軍艦「エルトゥールル号」の遭難事故があったほどです。その際地元住民が助け、それが今でもトルコとの友好のシンボルとなっています。記念館もありトルコ大使もやってきます。
というように、紀伊半島の突端、潮岬から熊野にかけては難所であったことを伝えています。















































コメント