熊野有馬で、神格「結速玉」が創造された

熊野の古代を辿る

熊野有馬は四回目の訪問です。
伊勢神宮から新宮方面へ車を走らせていた時に、「花の窟屋」という看板が目に入りました。何か、花に関連する公園か何かと思い着くと、そこには神社があり、その神社境内には白い崖がそびえていました。
何だ此処は?と思っていると、イザナミ(伊弉冉命)のお墓ですとありました。国生みの神様で出雲に葬られた、という程度の知識しかなかったのに、疑問が湧き、調べると日本書紀にはこの熊野有馬に葬ったとありました。
これが、古代への興味を掻き立て、今回で四回も訪れてしまいました。

今回は、熊野有馬、熊野三神について、見て聞いて調べたことを交えて、熊野の古代を辿りたいと思います

自然信仰の象徴は「海の目印」
熊野には自然信仰が根付いていました。
熊野有馬の海岸に突き出た白い崖は「花の窟屋」、那智勝浦の山中から130m以上流れ落ちるのは「那智の滝」、熊野川河口にそびえる大岩は「ゴトビキ岩」ですが、縄文期より人々の自然信仰の対象となっていました。
自然の恵みを得て生命が循環し続けることを、人々は山頂の大岩(磐座)、雨が降り水が流れる川、木々が覆い茂る深い森などを敬い、祈っていました。

この三つは、海の上から良く見えます。
縄文期後半から弥生期には、人々は熊野灘に漕ぎ出し魚を獲っていました。又、黒潮に乗ってやってくるにも、これは航行の目印となっていました。
花の窟屋は、海に突き出た高さ70mの白い断崖です。
那智の滝は山あいにありますが、海上から遠めに見えます。
ゴトビキ岩は海岸から遮るものもなく、花の窟屋と同様に迫っています。

 

縄文~弥生遺跡が点在する
熊野灘に沿って縄文遺跡が点在しています。
代表的なのは、
・熊野速玉大社境内遺跡(新宮市) 境内全体から縄文時代中期の土器や石器が出土しました。
・阿須賀神社遺跡(新宮市) 弥生時代以降住居跡が10棟他見つかっています。
・津ノ森遺跡(熊野市) 熊野市の沿岸部、熊野灘を一望できる高台に位置する遺跡です。
縄文から弥生期まで続き、お米の跡(籾殻跡)が残る土器が出土しています。更にこの地の上に、
イザナミがカクヅチを産んだ場所として産田神社が鎮座しています。

阿須賀神社遺跡住居跡

弥生時代末から古墳時代の住居跡10、建物跡4が発掘され、
歴史民俗資料館の入口の前に、建物の床の形や大きさがレンガで表示されています。
土錘(どすい)(魚をとる網に付けるおもり)や製塩土器(せいえんどき)(塩づくり用の土器)などが発見されました。

津ノ森遺跡

稲は南方から来た
産田神社は津ノ森遺跡の上に建っており、弥生期に津ノ森遺跡で米(赤米)の栽培が始まりました。南方、といっても大陸江南から南西諸島沿いに北上して南九州に上陸した人々が、日向から黒潮に乗って熊野灘までやってきたのでしょう。
イザナミが葉にくるまれた稲穂を見つけて、米を栽培始めたという物語が残っています。

現在でも産田神社周辺で古代米を栽培しています。但し、栽培しづらい赤米ではなく黒米です。
花の窟屋神社のお土産には、その黒米があります。今でも神事用には赤米「あかまい」を使います。
但し、お土産等で使われているのは黒米です。 1980年代の古代米ブームでアントシアニンが豊富で健康効果が高い黒米も併せて導入されました。 黒米が熊野の気候によく合い、農家が栽培しやすかったことから、生産量が安定し、土産物として広く供給されているようです。

熊野に神格(結速玉)が現れる
先に述べたように、のちの時代に、イザナミ伝説に、波に漂う葉にくるまれた稲穂を見つけ、持ち帰り植えたという話があります。有馬の昔話としても伝わっています。
弥生初期(BC10C~5C)に南方から持ち込まれた稲はここ熊野有馬で育てられて、生活に劇的変化をもたらしました。
お米は生命の基本として大事にされて、種から稲穂が実り、刈り取って又種になるという生命循環の物語、神話を熊野灘に托したのではないでしょうか?

熊野独自の「結速玉」(むすびはやたま)の誕生です。
結は、取り持つ、くっつける、産む(むす)という意味があり、命(稲)を産みだす力、パワーであり、のちにはイザナミが死んでカグツチが生まれ、次に五穀が誕生するいう物語に変遷します。
玉は産みだされる糧で、速は速やかな成長、勢いを表しているようです。
これは、のちに那智大社(結=夫須美)、速玉大社(速玉)に分かれます。

死から生へ循環する
イザナミはカクヅチを産んだ時に焼かれて死に、その死体から豊穣の実を生み出したとあります。
女神が死んで、そこから新たな命(作物)を産むという生命の循環です。
(会陰が焼かれたというのは出産に伴う出血で亡くなったと想像されます。)
このような話は世界にいくつかあり、地母神が死んで豊穣がもたらされるというインドネシアの「ハイヌウェレ」神話がその元となっているのではないかという説が多く出されているようです。ハイヌウェレというのはヤシの枝と言う意味の女の子の名前です。
女神が死に作物をもたらすという神話は熊野だけではなく、紀元前5-6世紀から広く九州から広まっており、3世紀の卑弥呼の時代にも創世神話は語られています。

有馬(産田神社)で米が栽培されていた
日本書紀では、イザナミを葬ったのは熊野有馬とされて、今の花の窟屋の割れた穴の中に葬ったとか、産田神社がその場所であるという話が伝わります。カグツチを産んだので産田と名付けたと伝わっています。

産田神社は津ノ森遺跡の上に建っており、この場所で米(赤米)が栽培されていました。現在産田神社の拝殿の両脇には石で囲った神籬があり、豊作を祈っていた名残があります。花の窟屋から徒歩で約1.5kmの山すそにあります。此処は、南方神話を元にイザナミが死んでカグツチを産み、稲が実ったところとされてきました。

花の窟屋は神話の世界に
花の窟屋はイザナミのお墓と伝えられて、日本最古の神社である花の窟屋神社があります。
そのそばには、イザナミとイザナギが争った「黄泉平坂」、高天原の最も清浄な水が湧き出る「眞名井」があります。そして、イザナミがカグツチを産んだ場所とされる「産田神社」もあります。
花の窟屋がある有馬は神話の世界となっています。
BC10C~5Cにかけて南方からやってきの人々が七里ガ浜に上陸し、稲ももたらしました。この白い断崖は海の生命を司るとともに、のちの時代に稲をもたらしたのはイザナミであるとして祀られます。
改めて、花の窟屋は奇岩です。海岸に突き出た白い断崖です。
縄文以来、これを見続けてきた人々は何を思い、この白い断崖にどのような思いを込めてきたのでしょうか?長い海岸は人々が上陸するには適しています。日の出、日の入りの様子をご覧ください。


「黄泉平坂」も「眞名井」も出来た
日本書紀にイザナミを熊野有馬の地に葬ったと記述されています。おそらくその後の時代に、日本神話に沿って、従来からある自然信仰跡に後付けで被せて遺跡としたところがあります。

一つは黄泉平坂です。地元では「日初様(ひそめさま)」とも呼ばれています。産田神社から数百メートル登った竹が生えた斜面に岩が露出して穴が見えます。では出雲の黄泉平坂が本物で、こちらがフェイクかというと、両方共日本神話に沿って創られた遺跡ではないでしょうか?
ただ、イザナミとイザナギの争いは出雲神話に被せた方が話は面白く、又出雲族への配慮から神話としては古事記を優先したのだろうと考えます。
更に上の方には眞名井もあります。

黄泉平坂の上方には「まないたさま」・・・眞名井があります。

まとめ
-熊野有馬地方-

BC10C~
・縄文期から熊野灘に面する白い断崖(花の窟屋)は海からの目印で自然信仰の対象だった。
・那智の滝は永遠に続く生命の流れ、ゴトビキ岩は天とつながる磐座として信仰の対象だった。
・熊野川には「熊野坐神」とのちに言われた、川(水)を対象にした信仰があった。
・地主神・地母神という言い方(定義)が良いのだろう。
BC5C~3C
・熊野灘に南からやってきた人々により稲がもたらされた。
・縄文から続く津ノ森遺跡で米(赤米)を栽培し始めた。
・そこに、米の豊作を祈る場所(神籬)・・・稲作地で地母神に祈った。(現在の産田神社)
・黒潮に乗って南からやってきた人々は「女神が死んだそこから作物がもたらされた」という神話も携えてきた。カクヅチを産んで死に、その後五穀をもたらしたという話に発展する。
・地母神は結速玉(むすびはやたま)、速玉という熊野の神格となった。
(まだイザナミともイザナギと関連付けられていない)
・結(むすび)は産す(むす)で生み出すという意味で、イザナミが死んでカクヅチが生まれ、次に五穀が誕生するという新たな命を取り持ち生み出す力を表現している。
・速は、急激等の激しい動きを表し、玉は霊、魂を意味する。
BC3C
・大陸から徐福がやってきていたとすれば、熊野の山川を「仙人の神仙」と同一視して、また求めていた「遥か東方の海上にある不老不死の国」が熊野灘のかなたに永遠の国がある、それを常世と言い換えて熊野に同化していった。
・しかし、不老不死を願う始皇帝の気持ち、論理は根付かず、生命の循環にさらに重きを置くようになった。
AD7~8C
・日本書紀にイザナミは熊野有馬に葬られたと記述される。伝承はもっと以前からあったのだろう。
・神武東征伝説で熊野に上陸した神武が倒れた時に、高御産巣日神(タカミムスヒ)から布都御魂(ふつのみたま)剣を貰います。ムスミ(結)が重なるのは偶然だろうか?

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