鉄が結ぶ熊野波田須と奥出雲
奥出雲の田部家はたたら製鉄を栄えさせてきた一族があります。その田部家の関係者から、「田部家の祖先は熊野水軍である」というお話を直接うかがいました。
徐福が熊野の波田須に上陸して、製鉄を伝えたという伝承があります。焼き物を行った場所を釜所(かまどころ)と呼びますが、「釜所」は徐福が製鉄を始めた所とも伝わります。
しかし、熊野周辺では製鉄などの遺跡は残っていませんが、小規模な鉄づくり方法を中世まで伝承して、想像にすぎませんが、砂鉄が豊富な出雲に伝えてたたら製鉄が隆盛したという可能性はあります。
また、熊野水軍を率いたことで有名な人物に、熊野別当家の湛増がいました。源平合戦では大きな海上勢力を動かしました。熊野別当家は田辺・新宮を拠点とした熊野の有力一族でした。田部家は「熊野の田辺家の一派」と伝えています。
熊野(伊勢含む)は水銀鉱床、丹生の産地でした。弥生時代紀元前10世紀から5世紀には採掘していたのではないかと推測します。それ以前から酸化第二鉄、ベンガラを使って主に色づけはしていました。
つまり、鉱物、金属抽出などの技術が元々ある地域ですので、徐福から製鉄技術を学びとる素地はあったので、技術を習得後長い間伝承していたという想像は成り立ちます。但し、良質な砂鉄は少なく、技術も稚拙だったので少量の鉄しか生産できていなかったのでしょう。
中世になり、海上交易を担った熊野系集団が、金属資源や技術情報をほかの地域に運んでいたのではないか、そして、出雲まで進出したのではないかということでしょうか。
たたら製鉄といえば、八岐大蛇伝説、洪水に見舞われる斐伊川、上流の砂鉄などの影響で赤く染まる川床など、出雲の風景です。熊野と出雲(奥出雲)は関わりがありそうだという、なかなか興味深いストーリーになりそうです。
徐福伝説と熊野
熊野には徐福伝説も数多く残されています。
新宮市には阿須賀神社や徐福上陸碑、徐福公園などがあり、徐福ゆかりの地として知られています。
徐福が実際に熊野へ来たかどうかを証明する史料はありません。しかし、紀元前3世紀頃に中国の神仙思想が日本列島へ伝わったことは十分に考えられます。
また、江南地方から海流に乗れば熊野へ至る航路は自然なものであり、徐福伝説が生まれた背景には、古代からの海上交流があったのでしょう。
熊野の自然信仰は、生命が循環するという世界観を持っていました。一方、徐福が求めた不老不死の神仙思想は異なる考え方ですが、熊野の山々や深い森は仙境として受け止められ、後の修験道や熊野信仰にも影響を与えた可能性があります。
波田須町(はだすちょう)は、秦住が語源(秦氏が住んでいた場所)です。そして、2200年前の秦半両銭が出土しています。今は波田須神社があるのみですが、徐福は七里ガ浜に上陸したとも考えられます。
以下、「徐福伝説in熊野」から引用です。
徐福一行は何十艘もの船で船出したが、台風に遭い徐福の船だけが波田須町の矢賀(やいか)の磯に流れ着いた。そのころ、波田須には家が3軒しかなく、その3軒の人たちで徐福らの世話をした。
徐福らは波田須に住み着くことを決め、「徐」姓を使わず、「秦」から波田・波多・羽田・畑など「ハタ」と読む漢字をあてて名乗った。そして3軒の人たちに焼き物の製法や農耕や土木、捕鯨、医薬などの技術を伝えたとされる。
「波田須」という地名は「秦住」から来ており、「矢賀」という地名も徐福が付けたとされ、徐福が焼き物をした場所は「釜所(かまどころ)」と呼ばれるようになった。「釜所」は徐福が製鉄を始めた所とも伝わる。


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