3世紀の日向三代と神武の事跡を巡り、神武が日向灘を北上した謎を追います。
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2024年7月 追加
「薩摩半島に上陸した人々と日向灘を北上した神武」
瓊瓊杵尊のお墓を巡る中で、薩摩半島に上陸して九州内部に拡散していった人々を知りました。その時代にどのようなことが起こっていたのか興味が湧きます。
そして、神武東征の出発地である日向の事跡を巡り、後の時代の大和尊と重なる海路は後付けなのかどうかなどを改めてまとめました。
こちらをご覧ください。(PDF)
薩摩半島に上陸した人々と日向灘を北上した神武
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日向三代は瓊瓊杵命、火遠命(山幸彦)、鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズ)の三人です。
・瓊瓊杵は木花開耶姫と笠沙で出会い結ばれ、最後は可愛山稜に葬られます。
・その子の火遠命(山幸彦)は兄の火照命(海幸彦)と争い勝ちます。
后は海神(わたつみ)の娘豊玉姫です。乙姫様のモデルになっています。
・孫と言われる鵜葺草葺不合の事跡は殆ど残っていません。神武(神日本磐余彦)の父です。
后は玉依姫で豊玉姫の妹なので鵜葺草葺不合は火遠とは同世代です。親子ではないでしょう。
今回辿った神武の事跡は、生まれた場所の皇子原と佐野原聖地、育った狭野神社、成人後政務を執った皇宮舎です。
北上し始めてからは、美々津の浜、神の井、速吸門・早水姫神社、宇佐神宮です。
日向では、4世紀に景行天皇と大和尊が南の熊襲と戦っています。
西都原古墳群には5世紀の仁徳の皇后とその父が眠り、6世紀には推古は馬子に向かって
「馬なら日向がよい」と言ったように、日向はヤマト王権とのつながりは深かったです。
ヤマト王権支配の元を創ったのは、3世紀に北部九州からやって来た人々だったのは確実でしょう。
南九州をぐるっと巡り探っていくと、だんだんと当時の九州の勢力関係が見えてきました。
そして、天孫降臨から神武東征に至る物語は本当のことだったのか改めて考えてしまいます。
天孫降臨は、7世紀末に持統から孫の軽皇子へ皇位を継がせた事の正統性を表したかったのでしょうか?
日向三代、神武の御陵、遺跡は、宮崎県と鹿児島県に分かれて複数存在します。
それらが後世の人々の思惑と重なり、実態を判りづらくしているように思えます。
邪馬台国の会で内野会長が、鹿児島県に日向三代の遺跡、御陵が多いのは明治政府が薩摩に
忖度したこととその詳細を発表されたのに触発され、その辺りを確かめる旅にもなりました。