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=第六章= 神武に続く者たち <改題> 1月29日
=付録= 古代年表
-饒速日から神武、崇神に至る鉄の路-
2017年に熊野花の窟屋神社を訪問して以来、日本神話の世界から飛鳥時代まで、特に文字に残されていない歴史に興味が湧きました。その後、方丈号でいろいろな場所を訪ね、様々な方々のお話を聞き、少し調べて、私なりに感じ、考え、推察、想像したことを、「神武東征の実相」という切り口でまとめました。

月岡芳年『大日本名将鑑』より。神武は実在したか?
鉄が日本列島に大陸と半島から流入すると、北九州勢力は特に新羅と、武力衝突と和解を交互に繰り返していたようです。
どちらが先に手を出したかは定かではありませんが、半島南の鉄の権益争いだったのでしょう。
第七章 年表(新羅本記と後漢書、倭人伝をみる)で、戦いあった時期を確認できます。
日本書紀を編纂したころには、それらの記憶に加え、神功皇后の新羅征伐(結果は敗退)、推古期の新羅征伐計画があり、そして、直前の出来事である白村江での大敗は屈辱にまみれ、天武、持統たちは、唐と新羅に対する反感を掻き立てたことでしょう。
更に、大陸(中国)の下に見られないよう、ずっと独立した国であることを強調するため、卑弥呼が親魏倭王の称号を得て、魏をバックに支配力を高めたことは、天孫族の権威に反しているので記述しなかった。娘の台与が西晋へ使者を送ったこと、倭の五王たちの大陸詣なども同様であったと推測します。
鉄の路が日本列島に広がり、奈良湖から奈良盆地へ変わっていく頃に焦点を当てて、「神武東征の実相」に至る流れとその後を探ってみたいと思います。
拙文を読んでくださったら幸いです。
=第一章= 日本書紀は神代から始まり持統で終わる
1.神武大王は実在したか?
神武東征は古事記にも日本書紀にも書かれている。 実際の出来事なのだろうか。九州高千穂の峰に降臨した天孫族の三代目である神武は、瀬戸内海を経て紀伊半島沿岸を回り熊野を越えて、ようやく八咫烏に導かれて太陽を背に奈良盆地の南、吉野に降臨した。幾多の著述家、文献研究者、考古学者、市井の研究者などが、この真偽を語ってきた。
日本書紀は、神武東征は天孫族が日本列島の唯一の統治者であることを示す道筋を示している。 天皇制は編纂最中の702年の大宝律令を以って始まったとされ、現代日本の社会までずっとつながっている。 神武東征の実相を考えるには、先ずは、日本書紀に天孫思想を織り込んだと思われる持統天皇の役割を考えてみたい。
「現代日本人」はBC3C以降崇神期まで、鉄と共に列島内に広がったが、その前の記憶をとどめていない。(消し去ったとも・・・) 神武東征以前の時の流れとその後に続く大王たちの実相を辿ってみたい。
注)呼び名
漢風諡号の神武天皇が一般的だが、日本書紀の中では、「神日本磐余彦」(かむやまといわれひこ)であり、実名は「彦火火出見」(ひこほほでみ)と表記されている。
注)天皇の呼称
天皇が初めて使われたのは、聖徳太子が隋に送った国書に“天皇”と表記され、それが最初と思われる。それ以前は、単に大王“おおきみ”、“すめらみこと”などと呼ばれていたようだ。
注)”はつくにしらすすめらみこと”
この名は、日本書紀で、神武(始馭天下之天皇)、崇神(御肇國天皇)両者の事績を称賛する文中で使われている。個別の呼び名というよりも、”素晴らしいことを初めて行ったすめらみこと”という使い方と言える。
ゆえに、これを以って両者が同一人物であると言は言えないであろう。
注)東征か、東遷か?
東遷は、神武以外を含めて北九州勢力が東に向かい、奈良盆地に勢力を移した意味で使われているようで、東征は神武が正に武力で征服した意味で使われています。
2.日本書紀とは
天皇家、天孫族は天照から連綿と続く万世一系の現人神であり、“日本”を統治する唯一の存在であることを国内外に明らかにする書である。
神が統治する国である。 日本書紀は天孫降臨を軸に、倭から日本(ようやく国というものを意識した)に至る国家像の歩みを表すとともに、AD3Cから始まる大王たちを8Cに天皇に昇華させ、日本国家を統治する天皇家の正統性を確実にすることであった。
天武が発案して持統とその骨格を作り上げた。天武の皇子たちが中心となって、天武以前から各地で語り継がれていた物語エピソードを編集方針に沿って修正し、完成させた。編集方針に合わない各家の伝書は破棄させたという。
北部九州で生まれた初期天皇家(天孫族とした)が東へ移り、奈良盆地を中心とした地で全国を統治して発展させたことを鮮明にした。
対外関係は、半島(特に東の新羅)を敵対する地域として強調し国内求心力を高めた。白村江の大敗による防御体制整備は一例である。大陸については対等であろうとして、渡来人を重用して漢文で記述したが、大陸との関連はなるべく少なく記述して、大陸が日本に与えた影響を小さく記述した。
大王初期に活躍した物部氏は蘇我氏に滅ぼされ、日本書紀が編纂される頃には歴史の片隅に追いやれていた。物部氏と同時に饒速日の活躍を過少に表しているのも特徴である。
さらに、蘇我氏も主流ではなくなり、藤原不比等は30代で、まだ大きな力を握っていたとは思えない。
つまり、持統の影響力は最も大きかったと考える。
(追加の疑問)
不可解なことに、記載されている日食は、地域的、時間的(夜中)など、実際は日本では観測できないものがあり、唐書などを参考に架空の日食を記述している。中国の史書と渡来人たちの中国語能力を頼っていた証でもあるが、その理由を推し量ることができない。
3.持統は何をしたか?
持統が日本書紀編纂に果たした事柄を、文献と実地を基にして、推察を展開します。
持統が天皇を継いだ時には、天智、天武、鎌足は既に亡くなり、蘇我氏の影響力は無く、不比等は天智側の人間として持統の指示に従い力を付けようとしていた時期です。不比等が活躍するのは持統後で、大宝律令編纂に関わったころから力を付けてきたようです。
つまり、日本書紀編纂の総責任者は持統になったのです。
1)持統は、夫天武の遺志を継ぐ
天皇家の永続を求める 持統は日本書紀を発案した天武の皇后である。夫の死後天皇に即位してから、後述するように、日本書紀並びに現代につながる天皇家の基本的な枠組みをつくりあげている。
大きくは次の4つである
①天皇継承する儀式の形式を成立させた。(高御座等)
②父子相続の原則を確立した。
③伊勢の天照祭祀を永続化させるため20年毎の式年遷宮を実行した。
これらは現代まで約1300年間連綿と続いている。
④日本書紀編纂に大いに関わり影響を与えた。
持統が夫の遺志を継ぎ、歴史の修正と創作を行い、完成させたのが日本書紀といえる。
伝え聞いていた過去の実際の出来事に、天智の娘として、天武の皇后として、斉明の孫として実際に見聞き、経験してきたことをつなぎ合わせ、創作も加えた。
皇家の統治正統性を裏付ける日本書紀の根幹部分に大きく影響を与えたのである。
そして、現場の政治運営は、当時最新システムである仏教を重視、自らは祖母斉明の影響を多く受け、夫天武への愛を貫いたのでしょう。
2)九州朝倉宮で学ぶ
朝倉宮で倭国の実力を知る 百済を救うため、倭国の軍団を半島に送る際に、軍団だけではなく九州朝倉野宮に遷宮するかと思われるほど、斉明以下、殆どの皇子、皇女が飛鳥から九州に移動した。 持統も斉明に同行し九州朝倉宮に滞在した。
その行き帰りを含め体験した多くのことが後の持統に影響を与えた。
例えば、神功皇后も朝倉宮に滞在したこと、更に昔の卑弥呼の宮もここに在ったと知る。数百艘の軍船の規模感(一説に12000人規模の軍団が移動したとある)、周囲の豪族たちの歴史話なども見聞を広めたであろう、そして、当時、天孫降臨の地と伝わっていた高千穂まで足を延ばした可能性は大きい。
持統は現地で命を落とした斉明に哀切の思いを深くしただろう。父天智の直断直情に祖母斉明と周囲が振り回されたが、父天智は半島で大敗すると逃げ帰り大津宮に籠ってしまった。夫天武との違いが分かった。そして、大田皇女と生まれたばかりの大津皇子たちに嫉妬するという複雑な思いを持ち続けた。
3)吉野宮滝で啓示受ける
吉野宮滝宮で思う 。
天武が死に自らが即位したのち、夫、皇子たちとの強い記憶のある吉野宮滝を31回も訪れている。
宮滝は九州高千穂と地形が似ており、標高、年間気温、降水量がほとんど同じという環境である。
朝な夕な宮滝の流れと共に南にそびえる青根ヶ峰を仰ぎ見て、「神武が太陽を背に降りてきた」という重要な啓示を得たのではないだろうか。
宮滝は縄文時代から続く集落地に在り、伝わっているだけで応神、雄略、斉明が宮を築いていた。古き大王たちに思いを馳せ、夫天武と記憶を思い出して、心を休めてたばかりではなく、天皇家の永続性を確保する戦略を何度も何度も練っていたのだろう。
ここは飛鳥から南にひとつ山を越えた場所で、飛鳥の豪族たちの雑音は聞こえず、吉野川の流れと鳥の声が聞こえるだけ、そして神々しく太陽を仰ぎ見る処である。

4)熊野が命の源
熊野こそが生命の源である。
日本の源である 青根が峯の先は命溢れる熊野の山々が連なり、その東には常世に繋がる熊野灘が広がっている。
その沿岸の伊勢神宮に天照を祀り、古事記と全く違い、熊野有馬の地に伊邪那美(イザナミ)を葬っている。そして、伊邪那岐(イザナギ)の言い伝えも、梛(ナギ)を神木とする熊野速玉大社に在る。
天皇家の先祖である、熊野有馬の地に伊邪那美(イザナミ)の墓を置き、伊邪那岐(イザナギ)を黒潮の流れに沿うように祀った。そして伊勢に祀る天照大神(卑弥呼)の永続性を求め、式年遷宮を開始した。熊野灘は常世(黄泉)に通じる地であり、黒潮の流れがある。
5)吉備を隠す
日本書紀では、神武東征最中に、吉備に3年滞在しているが軍備を整えたとしか詳述していない。古事記では8年間となっている。吉備勢力を武力支配したうえで協力させたのか、瀬戸内海の海上交易、鉄の交易権とのバーターなどで協力し合ったのかは定かではないが、その間、吉備勢力の影響を受け、東征への協力を得たのは確かだろう。
日本書記が詳述していないのは、天孫降臨から神武東征に関して吉備勢力の影響を受けなかったとしたかったのだろう。天孫族の独自性とカリスマ性を強調した。
しかし、その後、吉備の楯築遺跡(AD200頃)の双方中円墳(そうほうちゅうえんふん)が、崇神期以降の前方後円墳の前身となったように、吉備から重大な影響を受けている。双方中円墳は、円形の主丘の前後両側に方形の突出部2つが接続する形式であり、片方の方部分を取ると、前方後円墳の形になる。
因みに、前方古円墳の系譜は、桜井茶臼山古墳(崇神皇后)が最初で、次に、吉備にある中山茶臼山古墳(大吉備津彦命墓(おおきびつひこのみことのはか))と崇神天皇陵が同時期で並ぶ。
さらに、四道将軍(大吉備津彦)が吉備を平定した後、倭建命の遠征に、その弟の吉備武彦が同行したという話、吉備武彦のおばさんの倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が箸墓古墳に葬られているなど初期政権と吉備の関係は深い。
つまり、奈良盆地の前方後円墳は、吉備の楯築遺跡などを参考に4Cに始まり全国に拡大していったのであろう。
6)東征ルートを変える
記紀では、神武は大阪でナガスネヒコに敗れた後、紀伊半島の南端を回り熊野で上陸して、一度倒れるが復活して、八咫烏に導かれて山を越えて吉野宮滝付近に降り立った事になっている。 これを言い換えると、野蛮な武力侵略者である九州人は一度死んで、神聖な熊野の力で生き返ることにより、統治者としての受容性と神格性を高まった神武に人格変換を行ったとも言える。
しかし、実際の東征ルート考えると、大阪でナガスネヒコに敗れ紀伊半島沿いに南下した後、紀の川の河口に至る。紀の川(吉野川)は川幅が広く軍船が通りやすく、最近まで宮滝付近に吉野杉を運び出す船着き場があった。 神武は紀の川(吉野川)を遡ったと考えるのが、最も軍事的合理性に叶ったルートである。(青矢印)
そして、宮滝付近から宇陀に抜けるルート、つまり裏をかいて攻め勝利したのだろう。
7)父子相続を決意
皇位安定のため父子相続を決意する。
夫天武は甥の大友皇子との争い“壬申の乱”を経て、甥である大友皇子(大王)から王位を奪取した。持統は壬申の乱には持統も大いに協力していた。
持統は息子草壁皇子を後継者とするため、甥の大津皇子を謀殺した。何としてでも王位を自らの子に与えたい考え方に染まっていた。
天武、持統以前も大王の後継者争いには、有力豪族たちと叔父、皇子などが血を血で洗うようなこともあり殺伐としていた。 ところが、大事な息子草壁皇子が早世してしまい、目の前が真っ暗になり、ようやく後継者争いのむなしさに気づき自らの過ちを悔いたことだろう。
持統はこれから日本国を統べる天皇家は後継者を決定する決まりを作る必要性を感じ、力拮抗する兄弟間、思惑が多すぎる叔父甥間ではなく、血のつながりのみを重視する“父子相続”とすることとした。
吉野宮滝で大友皇子、大津皇子、草壁皇子を思うたびに嘆息と共に将来の天皇家の安泰をどうしたら実現できるか考えていたのだろう。
つまり、皇位争い(争い-荒波-ナミ-女)の歴史に幕を下ろし、天孫降臨伝説を柱に父子相続(平穏-凪-ナギ-男)の原則を作った。
8)天皇家の権威を高める
天皇家の権威を高める 天皇が即位する際の儀礼を整えた。 天皇と天をつなぐ高御座を発明し重要な儀式で用いて、天皇は天から降りてきた唯一の存在であると知らしめた。
9)伊勢神宮の式年遷宮を実行
伊勢神宮の式年遷宮を実施した 式年遷宮は天武の代に実施するようにしていたが実行されず、自らの在位中に実施した。以降、約1300年間、現在に至るまで、基本20年毎に実施され続けている。 先祖卑弥呼を天照大神として祀り、天皇家の象徴を永遠に継続する仕組みを作り上げた。
※)後述するように、天皇家の永続は伊勢神宮が見守り、世の中の安定は大国主を始めとする八百万の神々が司る、という二重性を縄文以前よりある自然崇拝と共に全国へ広げていった。
※)呼び名
幼名 「鸕野讚良」(うののさらら、うののささら)・・・日本書紀に記載
和風諡号 「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)
・・・日本書紀に記載
これは、在位中(生存中)に自らが了承して名付けられたのではないか?
火葬の際 「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)
・・・続日本紀に記載
この名前も意味深。根子=根の国の子? 天=高天原? 廣野=そのまま
漢風諡号 「持統天皇」
=第二章= 大陸、半島からの影響
1.「現代日本人」が鉄と共に誕生。 BC300~ 二重構造説に、大量の弥生渡来人が重なる。
1)BC12000頃~BC1000頃
縄文人が活動していた。
日本海側、太平洋側とも、沿岸沿いに丸木船が行き来して、黒曜石などが流通していた。
ほかの地域との交流を積極的に行っていたと思われる。
2)BC1000頃~BC300頃
縄文人は流入した人々と混血して「原日本人」となる。
縄文から弥生にかけて、南方、大陸、半島、樺太から渡来した人々は縄文人と混血して「原日本人」となり、九州、西日本中心に居住していた。
日本各地の遺跡人骨のDNA分析で証明されている。
BC5Cには、大陸の呉の国から稲作も入り、日本列島内に社会的集団が形成されていた。豪族が出現し小さな国ができ始めていたと思われる。
中国は、BC770-BC403は春秋時代。
この頃の移動は散発的であり、数人から数十人単位での移動ではなかったか。
「原日本人」の精神世界は、縄文時代より続く、水と山の生命力崇拝(自然崇拝)を基本にして、祖先信仰と列島以外からもたらされた骨占い(卜骨)を基本とする世界であった。
3)BC300頃~
「原日本人」は、大陸、半島からの「弥生渡来人」ともたらされた“鉄利用” により、
「現代日本人」となる。
数十から数百、千人単位の集団移動もあっただろう。
大陸・半島の騎馬民族(匈奴)の圧迫により半島を南下してきた人々は鉄の交易と共に、北部九州、日本海沿岸に辿りつき、混血して定住した。 各地の遺跡人骨のDNA分析で証明されている。
鉄を得たことで農業生産は飛躍的に向上し、社会的集団は大きくなり階級化が進んた。 鉄が大陸、半島で使われるようになったころから、人々の活動が活発になり隣国への侵攻、逃れる人々が多くなり、日本列島に渡来してくる人々が増大した。
かれらは「原日本人」社会に溶け込みつつ技術、社会形成ノウハウを持ち込み、各地に小国が形成された。
興味深いのは、話す言語は「原日本人」の日本語で、古代朝鮮語、中国語などとの関連はなく、文字を持ち込んだはずだが使われなかったことである。
「原日本人」「現代日本人」とも、話し言葉を重視し、文字表現をあえて拒否したのだろう。日本列島は言霊の地であり、それは連綿と現代にも続いている。
但し、渡来人も多く、漢文を理解していたとは思われる。
注)古代語の音節は現在よりも複雑で、様々な内容を言葉でやりとり出来ていた。
現代語でその特徴を残すのは、擬声語、擬態語、いわゆる「オノマトペ」表現が多いことではないか。
2.鉄と銅が入ってきて、社会が劇的に変化 BC3C~ 豊かになって戦闘開始
1)青銅と鉄が同時期に入ってきた。
他の世界では、青銅文化の後に鉄文化となるが、列島にはほぼ同時期に両方が流入した。 つまり、青銅器時代は殆どなく、青銅、鉄共存の時代となった。
鉄は武器、農耕器具など多様に使われ、青銅は錆びないので祭器、副葬品に用いられた。
2)何処から来たか
BC3C頃、遼東半島の鉄が半島から北九州、日本海側にもたらされ、農耕技術の発達していき、社会変革が始まった。 BC108に衛氏朝鮮が燕の支配下に入ってからは半島北部の鉄を手に入れるようになり、BC100-AD100頃には半島南部の鉄を交易により手に入れていた。
鉄と青銅は主に二つのルートで流入した。
一つは対馬海峡経由で九州北岸へ辿りつく路ともう一つは対馬海流・リマン海流に乗って日本海沿岸に直接到達する路である。 北部九州勢は距離的なメリットを活かして、対馬を経由して交易を活発に行っていた。
3)半島と鉄を巡る争い
AD14-AD233の間に、北部九州勢力は鉄と任那を巡って、新羅との間で頻繁に争った。(三国史記新羅本記)
日本海側にも鉄を持つ勢力があった。
BC100-AD100頃には半島南部の鉄を北部九州経由で手に入れていたが、その後、半島東側から直接、鉄を交易するようになった。
その後も大陸、半島から多くの人々が列島に移動してきて、新技術(鉄と農耕など)、戦闘の仕方、墳墓の作り方などをもたらした。
現在も残る新羅神社、そして銅鐸の原型などもある。
と同時に、追い出された人々は半島への反感、対抗心を持ち続けていたと想像する。
4)鉄が広がり、日本列島内も争いも激化
弥生時代後期(AD100-350頃)全体を通して、北部九州、日本海側諸国はは半島との交易に力を注ぎ、戦闘を行い、より多くの鉄を手に入れていた。
そして、列島内でも国同士の戦いも頻発していた。 (一つの国は現在の一都市程度の大きさであろう)
その鉄は南部九州、吉備などにも伝わり、それぞれの国力が上がっていった時期である。
AD100-200の時期は、鉄器を利用して農作物の生産が高まり、小国家(現代の都市、郡レベルの規模)は余剰人員を武闘専門化した集団を抱えて武闘を繰り返していた。倭国大乱である。
北部九州勢力は半島と国内の両方で武闘を繰り広げていたとも言える。
注)鉄は富の象徴であった。
半島南の木槨墓には、大量の鉄斧が敷き詰められていた例が多い。
日本列島内では、鉄鋌の形で流通していたようだ。古墳から出土している。
3.銅鏡と銅鐸の原型が入ってきた BC3C~ 祈りの道具になっていく
1)銅鏡が北部九州入ってきた 。
銅鏡は太陽神崇拝の象徴で、北部九州が中心となって広がる。
銅鏡は大陸から半島西部(楽浪郡、帯方郡)を経由して九州へ伝わり、神仙思想に基づく文様、絵柄が表されていた。 北部九州の人々は、鏡を太陽の象徴としてとらえた。
そして、銅鏡を太陽神信仰の象徴とし、卜骨と合わせた“鬼道”が誕生したのだろう。
但し、大陸では鏡は日用品として使用されていたようで、鏡に対する思い入れが全く違う。
2C後半から続く北部九州内部の争いは武力で決着つかず、3Cになり、鬼道を以って、魏志倭人伝の中心となる邪馬台国が北部九州を中心とした地域の諸国をまとめた。
2)銅鐸原型は日本海側に入ってきた。
銅鐸の原型が半島東部(新羅)から直接日本海側に伝わった。同時に鉄も伝わっており、農業生産は飛躍的に伸び始めていた。鉄は当初は北部九州経由から伝わり、その後半島から直接入ってくるようになった。
長年の自然崇拝を基に、農業生産と銅鐸原型結びつき独自の祭祀が生まれた。銅鐸の形が変化し、菱環紐式、外縁付紐式、扁平紐式の中小型銅鐸が生また。
祭祀の際に音を出して利用された。
安定的な農業生産を望む人々は、毎年の豊作と天候の安定を祈るため、銅鐸を農作祭祀に利用し、祭祀後は埋納し、又翌年の祭祀の際は掘り出して祭祀に使用していたのだろう。
半島東部では、銅矛を埋納し掘り出すことを繰り返す祭祀があった。これが銅鐸祭祀の参考となったのではないか。(この銅矛は北部九州製とみられる。)
毎年繰り返すこのような祭祀は、更に人々をまとめる“社会性”の発展に役立った。
銅鐸は人の生死にまつわる祈念には使用されなかったようで、宗教的側面より自然界への畏敬と祈りの道具となっていたと解釈する。
半島からの影響を受けながらも、日本列島の自然環境(生命力あふれる山、川)で育まれてきた、“自然と共に生きていくという精神性”は貫かれていた。
この精神性と鉄を用いた集団での農業生産力向上などが「現代日本人」の社会を変貌させ、大陸、半島とは違う精神文化と社会を形成していった。
日本海側では小国家間の鉄の争いは、銅鐸文化の浸透により沈静化していった。
半島東からの渡来人は木槨を埋葬形式に持ち込んだ。山陰から北陸にかけて四隅突出型墳丘墓を造り、又吉備では前方後円墳の原型と言われる盾築墳丘墓を木槨形式として、その周りに副葬品(鉄剣、ガラス勾玉、埴輪の原型の特殊器台)を入れた。
のちの前方後円墳では、木槨は用いられず石室形式になり、埴輪と鏡が並べられている。
吉備型と北部九州型を合体させたといえるだろう。
4.神仙思想も入ってきた BC3C~ 自然信仰と解け合う
BC3C頃、山東省付近で広がった神仙思想の基本は永遠の命を求めることを仙人が現出する形で表される。不老不死を求める、死なないのである。
宗教の基本の一つは、死後の世界への祈り、現世での祈りが必須である。神仙思想は死後の世界を否定しているわけではなく、死を克服する思想と言ってもいいだろう。
つまり、太陽が永遠に輝き続ける力を得る思想ともいえる。
BC219、200の二回、徐福が始皇帝に命じられ不老不死の秘薬を求めて日本列島に辿りついたという話が残っている。熊野他、数か所が候補となっている。神仙思想が強く広がっていた証である。
この神仙思想はそのまま日本列島で受容されず、縄文以前よりある祖先信仰に被さり、自然信仰と融合して北部九州、日本海側から広がっていったのではないか。
下ってAD200頃の高句麗の墓郭内部に神仙思想に基づく絵が描かれた。注目すべきそれは、太陽の内側に八咫烏を描いた壁画が発見されている。太陽に三本足の鳥の「八咫烏」が描かれている。
下って法隆寺の玉虫厨子にも同様に描かれており、長い時期にわたって影響を受けていた証左である。 「八咫烏」は太陽黒点を表しており、黒点は太陽表面を動き回り、まるで太陽の動きを導いているように理解されていた。
正に、天孫族の神武を導いた八咫烏はこの神仙思想を背景に日本書紀に描写されている。 大陸では不老不死を願った神仙思想は、日本列島に来てからは宇宙万物の法則を表し、自然信仰と結びつけて取り入れられるようになった。
その後、仏教とも融合して、修験道にも影響を与えた。
=第三章= 「現代日本人」の国づくり
1.北部九州勢力が力をつける
1)世界は混乱した
AD181 ニュージーランドのタウポ火山が大噴火する。(VEI7レベル、噴煙高度50km) 火山爆発指数VEI7は、噴出量は100km3以上。(セントヘレンズ噴火の100倍以上)
大量の火山灰と気候変動により世界中の農作物が壊滅的な被害を受け、大陸では黄巾の乱が起こる。
2)日本列島も混乱した
2C後半と言われる倭国大乱の原因も同様で、他国を侵略して穀物を奪い合う戦いだった。主に九州から日本海側、中国、四国北部で起きた騒乱のことを指すと考えられる。
但し、関門海峡など海を隔てた同士が争い合うというのは現実性がない。九州は九州内で、中国地方は中国地方内で争いがあったと考えるのが妥当であろう。
三国史記新羅本記に、「AD193に倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来」とあるのも、その証左である。
吉野ヶ里遺跡に代表されるような大きな環濠集落は一つの国であり、その大きな集落間で、半島新羅との争いのように、鉄製の武器を使って戦闘が繰り広げられたのだろう。
3)邪馬台国が抜きんでた
AD200頃~、その九州内での大乱を収めたのは三十数か国が共立した邪馬台国である。
流石に血を血で洗う争いを続けてはお互いに疲弊するばかりだし、同族意識も高かったので、共立の形で収めたのだろう。
半島対北部九州の争いで、お互い団結していた経験も後押したのかも知れない。
三十数か国の連合体が団結すれば、他を圧倒し抜きんでた存在になる。
AD238に卑弥呼の使者難升米(なしめ)が帯方郡経由で魏に謁見し、卑弥呼に対して、
親魏倭王の封号が送られた。
魏が遼東半島を支配していた公孫淵を滅ぼした翌年に、日本列島の他の国より早く訪れたのは、大陸、半島情勢に通じていたに他ならない。
これにより、北部九州での邪馬台国はさらに力をつけ、卑弥呼から台与に代替わりするのと時期を同じくして、都を朝倉宮から遠賀川流域に移した。
半島との交易にさらに力を注ぎ勢力を拡大した。 その後も、帯方郡経由で魏に使いを出しており、大陸勢力を後ろ盾にして更に他国を圧倒していった。
冊封体制に組み込まれていたという見方もできる。
2.日本海側に、“鉄と銅鐸祭祀”の生活圏がひろがっていた
1)出雲と半島東部
日本海勢力は半島東部と距離近く海流にも助けられ、直接交流していた。
BC1Cに建国された新羅の影響は各地に残っている。
出雲国風土記の冒頭、「国引き神話」は当時のつながりを示すものである。
2)“鉄と銅鐸祭祀”が広がっていた
鉄による農業生産の拡大と社会階層構造の出現と共に、半島東から銅鐸の原型がもたらされ、縄文より受け継がれていた自然崇拝と混じった“鉄と銅鐸祭祀”が広がっていた。
又、能登半島から中国地方の海岸沿い広がる漂着神は、日本海沿岸を行き来する人々に信仰されていた。
出雲勢力が最も大きかったとは思われるが、力で他方を支配するのではなく、鉄と銅鐸を用いた生活様式が根付き広がっていたと解釈する。 但し、大国主は両系相続を以って、糸魚川、長野、隠岐の島まで関係を持っていた。
3)四隅突出型墳丘墓
山陰から北陸にかけて、四隅突出型墳丘墓が作られた。
墳丘に石を葺く、四隅に石を置く原形式は、高句麗扶余の積石塚に求めることができる。
大きな墳丘墓を作るための設計力、労力を結集できる力を既に持っていた。
西谷墳墓群では、木棺を木榔でかこむ構造をとり,多量の水銀朱が使用された棺内から玉類や鉄剣などの副葬品が見つかっている。後述の吉備盾築遺跡も同様。
3.吉備勢力が力をつけていた
1)神武東征の足跡が残る
古事記、日本書紀の両方に、高嶋宮に滞在した旨の記載があり、現在の宮浦地区に比定されている。
北の吉備と南に陣取る神武が、海(湾かも)を隔てて、3年間からから8年間(当時の歴は現在の二倍とすると4年)も対峙し続けたが、支配出来なかった。
神武だけではなく、北九州勢が武力と鉄の利権をもって各地を手なずけながら東に進んだので、吉備に対しても、鉄利権とのバーターなどにより、対峙状態を収めたのかも知れない。又、長期間の滞在で祭祀なども影響を受けた可能性もある。
いずれにしても何らかの協力関係(和解)を築いて、さらに東に向かったのだろう。
しかし、その後、崇神期に吉備津彦(四道将軍)を派遣して吉備を屈服した。
追記)
古事記国生み伝説で、吉備の児嶋は建日方別(たてひかたわけ)と呼ばれると同時に、熊曽国(「くま」肥後南部と「そ」薩摩)も建日別(たてひわけ)と謂うとあります。神武が九州日向から出発したとなっていることと合わせると、意味深い。
2)盾築遺跡は勢力の証 AD200年頃
造られた頃は海岸が入り込んで、海を見下ろす高台に造られた。双方中円形である。
墓は木棺木槨形式で、半島の影響を受けているが、下部に32kgを超える朱が敷き詰められており、当時日本列島で採掘された総量の大半を占めているという見解もある。
更に、鉄剣、勾玉、管玉、ガラス小玉が副葬され、周りに特殊器台、人型土製品が並べられていた。
朱は辰砂、丹と呼ばれた水銀化合物であり、彩色、漢方薬に用いられて、吉野川上流など紀伊半島で主に産出された。
なぜ、ここに大量の朱が敷き詰められたのか謎は解けていない。
3)前方後円墳の原型
四隅突出型墳丘墓と盾築墳丘墓を合わせると、副葬品、周囲を置かれた特殊器台なども考慮すると、4Cから始まる前方後円墳の原型がそこにある。
=第四章= 奈良盆地は新開地
1.「湖」が「盆地」に変わっていく
1)奈良湖の水が引いて、耕地に適した陸地が出現し、人々が住み始め集落が出現した。
縄文から弥生初期にかけては、近畿地方の低地部は海岸が内陸に入り込み、又湖も多かった。
河内湖は現在の大阪地方、巨鯨池は京都盆地、奈良湖(大和湖)は奈良盆地などである。
各研究者によると以下のように報告されている。
2)古代史の謎は「鉄」で解ける。」長野正孝著 PHP新書より、
“やがて、河内湖も奈良盆地の湖も次第に干上がり、今の姿になったが、集落はその水際を追いかけて動き続けたのである。”
3)「奈良盆地の景観と変遷」千田正美著 1979年第2刷 柳原書店より、
①“奈良盆地は、地質時代には山城方面に口をひらいた海湾であったが、洪積期の終わりごろから、湾口に出来た奈良山丘陵の堆積によって大阪湾から独立し、大和湖を形成するに至った。その後、亀ノ瀬付近で断層による陥没が出来て、水は大阪平野に向かって排水されるようになった。
大和湖の水面は6000年ほど前には、70mの辺であったが、その後低下して、2500年以前には、50m辺まで低下するに至った。そして、湖岸平野が形成され、弥生時代になって、稲作がこの地域に発達することになる。”
“亀ノ瀬付近で断層による陥没は、大和川の川筋と重なってる”。
② “前期には、高度40~50mの場所に多い。 当時はまだ湿地帯で完全に陸化していなかったが、そのころの農業技術ではここが適地と考えられたのであろう。この辺に概当するのが「唐古池遺跡」である。
中期から後期にかけては、高度50~80mの多くの集落が確認されている。 50m以下では、三角州性低地の過湿地帯となり、おそい時期までで湛水していたので、そこを避けて集落を築いたようだ。 盆地が今日のように干上がってしまうのはその後のことである。”
4)まとめ
・2500年前は、奈良盆地周辺地図の濃い緑色部分(標高50m付近)の大半は湖であった。
・その後、湖が干上がり農耕に向く新開地が出現したが、集落はその周辺に点在した。
現在の山辺の道付近を境に、下は農地、上は集落というすみわけが続いた。
・鉄の利用で農業生産性が向上するとともに、新開地を求めて人々が移動してきた。
・周囲を山で囲われて、外敵から守るに格好の地でもあった。
2.出雲勢力が広がる
1)支配ではなく浸透
BC3以降、出雲日本海勢力で発展した“鉄農業力と銅鐸祭祀”の社会システムは、北陸、東海地域にも広がり、近畿奈良盆地、更に、紀伊半島南部の熊野方面まで浸透していった。
出雲族がそれぞれの地に武力で侵攻して税を取り、政治力で支配していたのではなく、その“自然コントロール手法”が各地に広がっていったと考える。
近畿式銅鐸が分布する地域と重なる。
2)大国主が神格化
大国主は両系相続などにより、北陸、長野、東海方面まで勢力を広げていた。そして各地で国津神として祀られるようになっていた。
これは銅鐸祭祀の世界と同じ地域である。
特に、奈良盆地から紀伊半島南部まで、大国主の影響は色濃く残っている。
最も有名なのは、大神神社で、三輪山に大国主が鎮座しているとした。
又、吉野の大名持神社は、妹山を神体山として原始信仰が始まり、オオナムチ(大国主の別名)を祭神としている。そばには、吉野寺、宮滝遺跡がある。
つまり、自然信仰、磐座信仰と現実のリーダー(支配者)を結び付けて、山そのものをご神体としている。山深く豊富な水のある場所は日本列島には多く存在し、特に紀伊半島南部は、その自然条件がそっくり揃っている。
命の源である山と川を、長い間畏敬していた人々には、わかりやすく信仰が広がった。
3.吉備勢力も入ってきた
吉備勢力も新開地である奈良盆地に進出してきた。そして、大規模墳丘祭祀を持ち込み、その墳丘墓は、いわゆる「纏向型前方後円墳」に代表される。
吉備の代表的な、「盾築遺跡」の特徴である、「双方中円形墳丘墓」から崇神期に始まる「大王の前方後円墳」までをつなぐ古墳群(墳丘墓)である。纏向型前方後円墳と呼ばれている。
奈良県天理市に在る、「中山大塚古墳 全長130m」「櫛山古墳152m」「柳本大塚古墳94m」「纏向石塚古墳96m」「纏向矢塚古墳96m」「東田大塚古墳120m」「ホケノヤマ古墳80m」などがそれに当たる。
「大和天神山古墳130m」は、崇神天皇陵の隣に位置し、竪穴石室、木棺、23面の大陸製鏡、大量の水銀を出土している。吉備からのつなぎというより、吉備と北部九州の特徴を備えているように見える興味深い古墳である。
「勝山古墳115m」を挙げる例もあるが、古墳外形と周囲出土土器だけでの推定であるので、少し根拠が弱い。
いずれにしても、吉備勢力が奈良盆地に大規模墳丘祭祀を持ち込んでいた証である。
「大王の前方後円墳」の形式を作り上げたのは、北部九州勢が征服の余勢をかって、箱式石棺と鏡祭祀を大規模墳丘祭祀に融合させたのか、祭祀儀式次第に長ける吉備勢力が大規模墳丘祭祀に鏡を取込み発展させ、北部九州勢がその形式を乗っ取り自らのものとしたか、どちらかだろう。
注)埋葬・祭祀の変遷と人々の移動は関連している。
後述する九州からの移動を含めて、図にまとめた。
=第五章= 北部九州勢力(邪馬台国)が東に向かう
1.国譲りは銅鏡勢力の勝利 AD250~260頃
北部九州勢力が出雲勢力を武力で屈服させたのが、“国譲り”である。
北部九州勢力は半島の鉄資源の権益を求めて争っていた。同じく、出雲勢力も北部九州経由で半島と交易をしており、鉄資源も手に入れて繁栄していた。宗像三女神は、出雲は北部九州と深い交流があった証でもある。
又、直接、半島東とのルートもあり、様々人々が日本海側に辿りついていた。
半島への拡大戦略を日本列島に振り向けた北部九州勢は、出雲日本海側勢力を支配するべく、何度も使者を送り要求していたのだろう。それが、国譲り物語にもある、三回の使者のことである。(天の穂日の命 3年居ついて失敗、武三熊之大人 帰らず失敗、天若彦 反逆して失敗と伝わる)
半島との戦闘で鍛えられた北部九州勢は、卑弥呼亡き後、AD249年を境に半島との闘いを休止させて、出雲に侵攻させたのが、“国譲り”と表された。AD250-260年頃だろう。
北九州勢が上陸した稲佐浜 しまね観光ナビ HPより
青谷上寺地遺跡の多量の人骨は、倭国大乱(2C末)の頃とされるが、これを北部九州勢力と日本海側勢力の戦いの悲惨な結果と理解すると、3Cの国譲りはその暴力的な力を背景に実行されたと想像する。
暴力的な九州勢力、平和で祈りの出雲勢力という構図が成り立つ。
その後、北部九州勢力がそのまま、出雲を中心とする日本海側を支配できたかというと、そうではなく、丹後半島の勢力との闘い、建御名方(たけみなかた)の追討にかかる越、信濃の勢力との闘いなどがあった。
そのように時間が経過する中で、出雲日本海勢力の“鉄と銅鐸”文化と合わさり、多くの勢力は北部九州に帰ることなくそれぞれの地域に根付いていったと解釈する。
2.饒速日が東に向かう AD250頃
1)北部九州勢 第二軍が奈良盆地に向かう
北部九州からは、前項の「天の穂日の命」は第一軍として出雲に向かい、「饒速日」は第二軍を引き連れて、栄えつつある東へ進撃した。
後述の「瓊瓊杵尊」は第三軍として、長い間反目していた南九州を目指して南下した。天孫降臨である。
半島との争いを休止した北部九州勢力は、国内重視の政策に転換して、各地に向けて行動を開始した。
遠賀川流域に本拠地を持つ、饒速日・物部氏が鉄の流通ルートを拡大するため、瀬戸内海を沿いに東へ向かった。
先代旧事本記によると、饒速日には、尾張、忌部、中臣などの32神と物部、十市部などが5つの部が従っていた。さらに、警備のため5名の「造」と、25名の兵杖を持った「部」が伴い、操船した6つの者の名が記されている。大集団である。
この大集団は河上の地、「哮峰 いかるがのみね」か、「磐船神社の磐座」に降り立ち、その後、鳥見白庭山付近に拠点を築いた。
実際は海岸に辿りついたが、天孫降臨を主柱とする高天原勢力の一員としては、高いところに降り立った事にしたかったのだろう。
天野川を跨ぐように横たわる、高さ約12メートル・長さ約12メートルの舟形巨岩を御神体と饒速日の墓。奈良寺社ガイドHPより抜粋。
2)近畿以東にも勢力を広げる
奈良盆地に到着したあと、滋賀、尾張、静岡まで勢力を拡大させていた。饒速日も鏡祭祀であったが、実際の勢力拡大には、大国主に倣い両系相続と“鉄農業力と銅鐸祭祀”の社会システムを浸透せる手法がとられた。
ただし、鳴らす銅鐸の近畿式銅鐸から、大型の三遠式銅鐸、見る銅鐸の分布エリアと重なる地域である。
3)現地同化策で権益を広げる
半島との鉄の権益争いなどで培った集団統率力、政治力は地場の豪族たちを上回り影響力を広げた。尾張氏などの引き連れた勢力が各地を治めたが、武力制圧ではなく、出雲日本海側型文化を利用して、又、両系相続と鉄を含めた経済力を握っていたと推測する。
4)実務の中心は物部氏
物部氏は鉄の交易と軍事力の中核を担っていた。物部氏が政治支配の実際を取り仕切っていたと推測する。物部氏は九州遠賀川流域を活動拠点としていたが、付近では多くの鉄の遺物が出土している。又、後年の天理市周辺の物部氏拠点は武器庫となっており、鉄の権益を継続して保っていた。
5)吉備勢力を上書きして、勢力を広げた。
3Cの奈良盆地には出雲勢力が広く根を張っていた。(支配ではなく“鉄”と“銅鐸祭祀”の世界)そこに吉備勢力が現在の纏向周辺に、大規模墳丘祭祀を象徴とした勢力を広げていた。纏向型前方後円墳とも、定型前の前方後円墳という言い方もある。(柳本大塚古墳など)
奈良盆地は半島からの距離的問題、沼地の開拓が遅れていた事などの要因により、産業の基本素材である鉄が不足し、鍛治利用の方法なども北部九州と比べ遅れていた。
そこに、饒速日、物部氏が九州から鉄を持ち込み、鉄の交易とその高度な利用を浸透させたのである。武力と政治力に勝る饒速日勢力が取って代わっていった。
6)前方後円墳が徐々に成立する。
「前方後円墳の変遷」を参照。
前方後円墳は一夜にして出来上がったのではなく、出雲日本海側、吉備勢力が交わり、それぞれの大規模墳丘祭祀が合わさり、奈良盆地で形作られつつあった。
そこに、北部九州勢がなだれ込んで支配したので、鏡と箱式石棺を祭祀の中心としたのだろう。
7)纏向型と大王型前方後円墳の分布
奈良盆地纏向周辺に、纏向型・定型前型と定型後・大王型前方後円墳が集まっている。
「奈良県 大和古墳群・柳本古墳群(2008)」資料に、加筆して、「纏向型/大王型前方後円墳の分布」として、その分布を表した。
8)3C奈良盆地の勢力図(神武東征前)
3.武闘派神武が東征を開始した AD270頃~
1)神武は東に憧れた
天孫族の瓊瓊杵尊は、北九州勢(邪馬台国)の国内侵攻第三弾として、南九州勢力を支配下に置いた。瓊瓊杵尊だけを天孫族としたのは、後述の神武東征の正統化のためである。
南九州のやせた土地で育った神武は、饒速日の成功話を聞くたびに、東にある、緑あふれる新開の地へ強いあこがれを持っていた。
又、九州は争っている半島に距離的に近く、常に政情が不安定であり、更には縄文期の火山の大爆発による大被害を受けた危険な地であるという遠い記憶が、東征を後押ししたのであろう。
武闘派でやる気満々の神武は、饒速日と同様に鉄の流通ルート利権の確保と拡大を自分たちも行いたいと東征を開始した。途中、吉備に3年間(古事記では8年間、当時は現在の2年を1年と数える場合もあり、4年間の可能性もある)滞在し、吉備勢力と対峙した。(海側の高嶋と陸側の吉備)
結果、吉備勢力は神武が持つ鉄の交易権などとの引き換えに休戦したのだろう。先に奈良盆地に進出して現地情勢に詳しく、協力する側に回ったのかも知れない。
その後、崇神期に争いが復活して、吉備津彦が吉備を完全征服した。勝者の歴史(日本書紀上)では、その存在を抹殺されたのであろう。
2)初戦敗退したが、迂回して再チャレンジ
神武は鉄ルートに乗り、安芸で、又吉備で戦い勝利したが、現大阪南方面(日下町付近)では敗れた。この対抗勢力は、生駒山を東に越えたすぐ近くに陣取る地場の長髄彦である。長髄彦は、既に東征していた物部氏勢力の戦い方などを参考にして、鉄製武器も使って強かったのだろう。
しかし、めげない神武は南に迂回して南の紀の川(吉野川)をさかのぼり、宮滝付近で北転し宇陀を通って、奈良盆地南に侵攻した。
3)熊野ルートを創作
ここで、第一章で述べたように、古事記、日本書紀とも、神武進軍ルートを創作している。ここでは、「熊野ルート」と呼ぶ。
実際には、神武は紀の川・吉野川を遡って宮滝に至り、宇陀方面から奈良盆地に突入したのに、記紀では、紀伊半島をぐるっと迂回したことにした。
その理由を再度、簡単に述べると、
①ごとびき岩(現神倉神社)で天啓を受け、この東征は天意であるとした。
②命溢れる熊野で、一度死んで生き返るのは、侵略者である九州人を、天意を持つ貴人として人格変換させた。
(九州は遠く野蛮な神武であるが、紀伊半島の熊野で生まれ変わったのなら、同じく自然信仰を尊ぶ人々となるで、支配を受け入れやすくなる、とも言える。)
③太陽の運行を司る八咫烏を先頭に宮滝に降り立つのは、瓊瓊杵尊が高千穂の峰に降り立ったのを模して、天孫族であることを明確にした。
と考えられる。
日本書紀によると、初戦敗退後、5月8日に山城水門(泉南市)、その後、竃山(紀ノ川河口)に五瀬命を葬り、6月23日にそのすぐそばの名草邑(紀ノ川河口)で戦っていた。その後、8月2日に宇陀に居たとされている。
泉南から近くの紀ノ川河口までが一カ月半、紀ノ川河口から紀伊半島を回って上陸を繰り返し、熊野の山道を通って宇陀に辿りつくのには、同じく一カ月半の行程である。迂回していてはとても一カ月半では宇陀につかないだろう。
古事記と日本書紀で、吉野(イヒカ)、国栖、宇陀の行程が逆になっているのも何か作為を感じる。
古事記、日本書紀とも、かなり無理した日程記述であり、実際には、神武は紀の川・吉野川を遡ったと思われる。
更に、崇神期にその北方の伊勢神宮に天照(卑弥呼)をっ祀っていたのに触発されたかもしれないが、日本書紀では、熊野の花の窟屋に伊邪那美の墓を置いてる。
命溢れる熊野と熊野灘(常世、黄泉の国)を意識した配置である。
これには、宮滝(吉野宮)に31回も訪れた持統の想いがこめられている。
4)奈良盆地に進軍開始
奈良盆地攻略は、先ずは、吉野川沿いの各勢力を味方につけてから(7月)、次のような段階を経て進軍して、奈良盆地を制圧していった。
①吉野、宇陀など南部を行ったり来たりしながら、磯城、葛城、磐余の各勢力を制圧し、協力関係築く。8月から10月の間。
②最も手ごわい、北部に陣取る長髄彦勢力と対決する。今度は饒速日(物部)の協力を得て勝利。11月から戦闘開始。
③翌年2月から、山辺の道沿いの抵抗勢力(土蜘蛛)を排除する。この勢力は吉備勢力の北方すぐに位置しており、吉備の直接的ではないにしろ影響下にあったと思われる。
④これら抵抗勢力を葛城に押し込める。
⑤同年3月に橿原宮造営を決意。
約一年後の、1月1日に即位。(辛酉革命に則り、推古朝から1260年前とした)
※特徴的なのは、三輪山周辺の出雲勢力と纏向周辺の吉備勢力と武力衝突した形跡がない。
①吉備勢力とは先に吉備で対峙して、鉄交易などで協力関係を築いていたと思われるので、奈良盆地侵攻に際して、戦う必要が無くなっていた。
②出雲勢力は、既に国譲りで配下に収めていた。又、その自然信仰的な広がりは広く根付いており、それを利用した占領政策をとることとしていた。
※倭国(やまとこく)
奈良盆地に入り磯城勢力と戦う際に、「倭(やまと)の国の磯城邑」という表現が出てくる。その後、戦後の論功行賞として、椎根津彦に「倭国造(やまとくにみやつこ)、大倭国造」を与えている。倭国造は葛城国造と同列で、倭は一地方の呼び名である。
その後、漢字表現が、「倭」から「大和」になったが、奈良盆地の一つの地方であることに変わりはない。
律令制が敷かれた時期から、この奈良地方全体を、大倭国→大倭→大和と表現するようになった。
更に、現在、奈良盆地をやまと盆地と称したり、神武から始まる政権をヤマト王権、初期ヤマト王権、日本列島をヤマトの国、日本は大和などなど、いろいろな思入れがある表現が溢れて、見る人聞く人を惑わしている。弥生時代と古墳時代などの時代区分も同様である。
地域名と時代名に思入れを入れずに表することは、人を惑わさずに実相を知ってもらう方法である。
5)神武は武闘派、政治力はどうか
神武は戦いには勝利し、橿原の宮を作り、論功行賞を行ったと伝わっているだけで、戦後、奈良盆地をどう支配していったのか伝わっていない。
つまり、実際の政治は先に居た国軍的役割の物部氏と、ずっと付き添ってきた親衛隊的役割の大伴氏(道臣命)に任せていたのではないか。
故に、日本書紀では、橿原の宮でどのような政治を行ったかの記述が出来なかった。
道臣命(後の大伴氏)は築坂邑(現鳥屋町)に宅を与えられたとある。
日本書紀神武巻の最後に、唐突気味に、神武と並んで伊邪那岐、大己貴大命、饒速日が日本(秋津洲)を賛美する一文が載っている。これは、神武が彼らと同等レベル以上の存在であると位置づけたかったのだろう。
古事記では、神武亡き後の相続争いを暗示するような歌と記述で、日本書紀のように国家(秋津洲)を論じていない。
4.邪馬台国東遷の勝因
1)邪馬台国は強かった
邪馬台国(海外からの呼称は倭国)は半島での鉄権益を争い、特に新羅との闘いを繰り返していた。その中で、最新の鉄製武器を手に入れ、組織的な戦闘方法を学んでいた。
そして、軍勢を三回に分けて、東方(銅鐸文化圏)に派遣し勝利した。
①出雲の国譲り、②饒速日の近畿及び以東派遣、③神武東征である。
邪馬台国は強かったが、各地に抵抗勢力は残った。
①南九州、②吉備、③丹後、④越、⑤東海などの地域である。
2)大陸(魏、西晋)の後ろ盾と政治力
卑弥呼(邪馬台国)は、魏が公孫淵を滅ぼしたAD238年に使者(難升米)を送っている。
以降、遼東半島に邪魔者(公孫氏)が居なくなり、魏と通行ができるようになった。
その後も、魏に使者を送り、関係を深めている。
その約10年後の249年には、新羅との戦闘を休止させ、AD250年以降に、国内で東遷戦略を実行始めている。
卑弥呼が248年に死亡していることが関係しているかもしれない。
更には、東遷戦略の真っ最中に、西晋が建国(AD265年)されると、その翌年(AD266年)に使者を派遣して後ろ盾とした。
戻るが、魏の情勢に詳しかったのは、魏以前の後漢とも関係もあったことを示唆している。公孫淵の敗北、西晋建国の翌年にすぐ使者を送ったのは、正に「機を見るに敏」な行動である。
このように、邪馬台国は大陸、半島の情勢に通じ、関係を押さえた上で、国内拡大戦略を実行した。高度な政治的戦略をとれる人材と体制を持っていたのである。これには、鉄と共にやってきた渡来人が深く関係しているのだろう。
=第六章= 神武の後に続く者たち AD280頃~
1.欠史八代(神武から崇神迄)
1)両系相続で出雲勢力を取り込む
出雲国譲り後に神武は奈良盆地を制圧した。しかし、奈良盆地に先に居た出雲勢力は影響力を持ち浸透していたので、その力を邪馬台国勢力に取り込むため、「言向け和す(ことむけやわす)」を実践していった。
邪馬台国から大倭国となっていく。
つまり、出雲勢力との両系相続により奈良盆地の支配を広げていった。
二代目、三代目のお后は大国主系だったが、その後大王、物部系を経て、四代名以降は、物部系と天皇系が入り交じりながら、十代目崇神以降は、天皇系お后となる。
皇后の出自を見れば鮮やかに、天皇系への系統変換を行ったといえる。
2)神武から崇神迄は、4つの世代間
神武から崇神迄の10代は、約70年間を4つの世代でつながっていた。
日本書紀編纂する際に、神武の生まれ年を辛酉革命に則り、推古朝から1260年前の人とした。そのため、神武から22代清寧神迄の在位年数を引き延ばし、各人を驚異的に長生きさせた。そして、後継者争いはあっただろうが、欠史八代には、持統が目指す父子相続を当てはめて系図を作った。血脈も断絶したかもしれない。
実際には、神武(AD280頃)から崇神(AD350頃)迄の約70年を、4世代間で推移したと推察される。(日本書紀では崇神迄の563年間を9世代間)
世代別構成は以下の通り。
第1世代:①神武と②綏靖は事代主の姫が皇后なので同世代。
第2世代:③安寧、⑤孝昭、⑥考安の第二夫人は磯城県主葉江の娘たちなので同世代。
その間の④懿徳は同世代。
第3世代:⑦孝霊は独立した世代。大和川見下ろす地に墳墓、西方を意識している。
孝霊の皇子である吉備津彦は吉備に赴き征服。(古事記)。
皇女の倭迹迹日百襲姫は大物主に嫁ぎ、亡くなるなど、逸話多数。
第4世代:⑧孝元・⑨開化は同じ皇后なので同世代。前方後円墳に移行。
第5世代:⑩崇神
以降、第一皇后は大王系(神武系)で占められる。
3)祭祀と墳墓の移行期
3Cから4C初めにかけて、出雲、吉備の大規模墳丘祭祀が奈良盆地にもたらされている。
纏向型前方後円墳から大王型大型前方後円墳へ移行してくのが、この時期である。
各代の墳墓形式は次の通り(宮内庁天皇陵より)
①神武:円墳(円丘)
②綏靖:円墳 径30m(円丘)
③安寧:円墳山形墳(山形)
④懿徳:円墳山形墳(山形)
⑤孝昭:円墳山形墳(山形)
⑥考安:円丘・円墳(円丘)
⑦孝霊:円墳山形墳(山形)
⑧孝元:前方後円墳1+円墳2(前方後円)
⑨開化:前方後円墳 長100m(前方後円)
⑩崇神:前方後円墳 長242(前方後円)
北部九州の墳丘墓(円墳、甕棺、箱式石棺)に、出雲、吉備系の大型墳丘墓を合わせ、
徐々に前方後円墳へ変化する。
正に、皇后の出自による系統変換と軌を一にして墳墓形式を変えていった。
4)日本書紀に事績が記述されない
いわゆる欠史八代は移行期で、既にあった出雲と吉備勢力の社会システムと物部氏の事績が相互に関連して社会が変化していた。天孫族の独自性、正統性に疑義が生じることは隠蔽された。
崇神以前は、世代間の記述を修正し、吉備、出雲、物部氏の事績が抹殺されている。
①物部氏の事績を隠蔽
物部氏の事績は殆ど伝えられていない。饒速日はから崇神に至るまで、実際の政治と軍事を司ったのは物部氏である。しかし、その後、蘇我氏との崇仏論争に敗れ、6C終わりに物部守屋は殺害される。7Cには更に物部氏から石上氏に姓を改めるなど、日本書紀編纂の頃には、完全に没落して、悪者扱いされていた。
そのため、物部氏の事績は賛美出来ない。
②出雲と吉備の隠蔽
祭祀と墳墓の移行期に活躍した欠史八代の大王たちの事績を書こうとすると、前方後円墳とその祭祀形式が吉備、出雲を基にしていることに触れなければならず、天孫族の権威が損なわれてしまう。
又、その間、実務を担当していた物部氏の事績にも触れざるを得ず、両系相続を経て支配の系統変換を行ったことだけを残したと推測する。