=第三章= 3.吉備勢力が力をつけていた

1)神武東征の足跡が残る
古事記、日本書紀の両方に、高嶋宮に滞在した旨の記載があり、現在の宮浦地区に比定されている。
北の吉備と南に陣取る神武が、海(湾かも)を隔てて、3年間からから8年間(当時の歴は現在の二倍とすると4年)も対峙し続けたが、支配出来なかった。

神武だけではなく、北九州勢が武力と鉄の利権をもって各地を手なずけながら東に進んだので、吉備に対しても、鉄利権とのバーターなどにより、対峙状態を収めたのかも知れない。又、長期間の滞在で祭祀なども影響を受けた可能性もある。
いずれにしても何らかの協力関係(和解)を築いて、さらに東に向かったのだろう。
しかし、その後、崇神期に吉備津彦(四道将軍)を派遣して吉備を屈服した。

追記)
古事記国生み伝説で、吉備の児嶋は建日方別(たてひかたわけ)と呼ばれると同時に、熊曽国(「くま」肥後南部と「そ」薩摩)も建日別(たてひわけ)と謂うとあります。神武が九州日向から出発したとなっていることと合わせると、意味深い。

2)盾築遺跡は勢力の証 AD200年頃
造られた頃は海岸が入り込んで、海を見下ろす高台に造られた。双方中円形である。
墓は木棺木槨形式で、半島の影響を受けているが、下部に32kgを超える朱が敷き詰められており、当時日本列島で採掘された総量の大半を占めているという見解もある。
更に、鉄剣、勾玉、管玉、ガラス小玉が副葬され、周りに特殊器台、人型土製品が並べられていた。
朱は辰砂、丹と呼ばれた水銀化合物であり、彩色、漢方薬に用いられて、吉野川上流など紀伊半島で主に産出された。
なぜ、ここに大量の朱が敷き詰められたのか謎は解けていない。

 

 

 

3)前方後円墳の原型

四隅突出型墳丘墓と盾築墳丘墓を合わせると、副葬品、周囲を置かれた特殊器台なども考慮すると、4Cから始まる前方後円墳の原型がそこにある。

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